2012/09/29
陳述書- 主尋問に関する補足 -
陳 述 書
- 主尋問に関する補足 -
平成24年9月24日
西 村 修 平
私、西村修平は平成24年7月11日の第13回口頭弁論に際し、提出した陳述書の中で下記の文言について、訴訟代理人の徳永弁護士から尋問され、朝鮮学校の運営に関わる職員並びに保護者に謝罪の意を表したが、これについて補足したい。
<その大義を世に問う手法が、正しいものであったかどうか、世論の賛同を得たかどうかを考えるとき、深く反省するところがある。なんの罪もない子どもたちを巻き込んで学校の運営に支障を来したという事実(愚かな言い訳に聞こえるだろうが、当時、学校で子どもたちが授業を受けていたことに対する配慮やイマジネーションが全く欠けていたというのが実際である。)、そして朝鮮総連や一部のマスコミが流す「弱いものイジメ」や「民族差別」という批判を招き、大義を汚してしまったことを深く反省する>
この時代に生を受ける我々人間は国籍とか民族を選択して出生することは出来ない。これは宿命でもある。日本と朝鮮半島は隣国であり、その交流の歴史は余りにも古い。ましてや、日本が朝鮮半島を統治下においた経緯からして、双方の民族感情が複雑に入り乱れ、時には対立して今日に至っている。しかしながら、国籍並びに民族はこの時代に生きる人間の宿命であり、この宿命を粛々として受け入れるべきと考える。
在日朝鮮人に関していえばこの日本国で生を受け、この日本で生活を営むのであれば、日本に対する感情の屈折は抜きにして、わが国の文化と伝統を尊重・慈しみ、日本国家のために尽力すべきだろう。そうした意識を自覚する在日朝鮮人を歓迎することこそあれ、停滞する日本を活性化する為には必要でさえあると思う。いたずらに在日朝鮮人を排斥する考えは全くない。
日本、朝鮮半島を問わず、何処の国にも長所と短所があり、それはその国の文化に根ざしたところから生じている。民族、社会条件が違えば長所と短所はある一定の条件で入れ替わる。従ってお互い、「嫌い」を文化の違いと捉える発想が必要と考える。
お互いの違いを軽蔑するのではなく、尊重する大きな度量を持ちたい。国家間が国益をかけて対峙したとしても、個人と個人が対立するような状況は生じさせてはいけないと思う。慰安婦問題、竹島問題で在日朝鮮人と意見を異に対峙しても、情感は通い合えるようにしたい。私は今回のこの民事裁判を通して、在日朝鮮人との間にあった感情の隔たりを少しでも解消したいと考えている。
その上で、主権回復を目指す会が主導して行った平成22年12月4日の抗議、同23年1月14日と同年3月28日に行ったデモ行進に関して、補足の陳述をいたします。
朝鮮学校職員並びに保護者の方も、全てが全て、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の国家理念と独裁体制に賛同しているわけではないだろう。様々な複雑な経緯の下で北朝鮮籍を維持し、或いは、朝鮮総連に帰属している人たちも多いはずである。4人が逮捕された平成22年12月4日の突然の抗議で、こうした方々の子供たちも通っておられる学校運営に支障を来すとか、保護者の方々の神経を痛く傷つけたのであれば、朝鮮学校の不法を糾す「大義」を実行する手法において配慮が足らなかったことを、深くお詫び申し上げる次第であります。
さらに、平成23年1月14日と同年3月28日に行ったデモ行進に関して、「不逞鮮人出ていけ」などの言葉に関しても、正規の手続きに基づくデモ行進に、実力行動でもって執拗に加えられる妨害に対して発した言葉であって、一般の通行人や在日朝鮮人一般に向かって発したものでは決してありません。これらのことは「陳述書(補充)」において下記のとおり申し述べてありますが、趣旨を明確にするために補充させて頂きます。
★陳述書(補充)
抗議でデモにおける私が発した「不逞鮮人」という言葉について弁護士から民族差別的な発言ではないかとして釈明を求められているので私の考えを補足しておきたい。
私は、「不逞鮮人」という言葉を、我が国の法を破り、拉致事件・不正送金・覚醒剤販売といった犯罪に関与したり、我が国の公序良俗・文化伝統を否定したり、日本人の象徴である天皇・皇室を蔑ろにして侮辱する「不逞行為」を働く「朝鮮人」という意味で用いている。確かに挑発的な言葉であるが、我が国の伝統や秩序に公然と挑戦して破壊せんとするものに対する言葉(政治運動用語)としては社会的に許容されうると考えている。
北朝鮮独裁政権に虐げられている朝鮮人民一般や在日韓国朝鮮人一般を対象とするものではない。民族差別を意図するものではないことを理解して頂きたい。
以上
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