戦国時代の朝廷 朝廷の「式微」は真実か
 
『日本及び日本人』1643号 平成14年(2002)1月
酒井信彦 (東京大学・史料編纂所教授)
 

1、 はじめに
  朝廷の研究はその重要性にもかかわらず、日本史の研究の中では戦前・戦後を通じて、比較的遅れている分野であるといわざるを得ない。その理由として考えられるのは、戦前の場合は、皇室尊崇の立場から、客観的に研究することを惧れ多いと憚る雰囲気があったこと、戦後の場合は全く反対に、左翼史観の影響で、反動的対象を研究すること自体が反動的だと決めつける空気が存在したからであろう。(ただし近年左翼史観の凋落に伴って、タブー視も漸薄れてきた傾向はある。)さらにそれだけではなく、戦前・戦後を通じて、朝廷研究が低調であった理由として、権力中心史観が考えられる。すなわち権力なき存在は重要な存在ではなく、従って研究するに値しないという発想である。つまり古代律令時代はともかく、権力を失った中世以後の朝廷の研究は、重要性がないと判断するのである。しかしこのような史観は、とりわけ朝廷の研究において、全く不適切だと私は思う。朝廷の存在の意味は、権力喪失の状況にこそ却明瞭に現れていると考えるからである。そこで本稿では、一般に朝廷が最も衰微したとされる戦国時代の朝廷を取り上げ、以上の点を具体的に説明することにしたい。

2、 日本歴史の特徴と室町時代の位置
さて戦国時代の朝廷を解明するための前提として、まず東アジアにおける日本の歴史の特徴と、さらにそのなかでの室町時代の特有な位置について考えてみることにしよう。

 いわゆる中国を中心として、日本・朝鮮・ベトナムなど東アジア諸国家の歴史は、その他の世界の国々の歴史とは大きく異なる性格を持っている。それは律令国家が存在していることである。シナにおいて成立した利雨量国家は、日本でも積極的に学ばれて、古代における文明開化政策として導入された。そこで取り入れられたのは単に律令という法律のみならず、それに規定された国家体制や官僚構造、さらには都城制度や建築などの物質文明にまで、すなわち社会のあらゆる分野に及んでいた。この巨大な構造改革は、約1千年以上後の明治維新において、欧米が生み出した近代国家をモデルとした改革が導入されたのと全く同じことである。

 しかし我が日本では、この律令国家がその後数百年を経ずして崩壊してしまうのである。我々は日本史教育で教えられているから、律令国家が崩壊・消滅するのが当たり前だと考えているが、世界史的視野で見た場合、崩壊する方が飽くまでも例外なのである。何故なら東アジアの他の国々では、律令国家は強固に存在し続けたからである。いわゆる中国で律令国家が廃絶したのは、20世紀になってから1911年の辛亥革命によって清王朝が滅んだからであり、朝鮮ではその前年1910年に日本が李氏朝鮮を併合したからである。ベトナムの場合は、フランスの植民地下でも阮王朝は存続し、最終的消滅は第二次大戦後のことである。すなわち日本以外の東アジア諸国では、一つの律令国家が滅んでも、繰り
返し同様の律令国家が再生産された。これが王朝の交替であり、易姓革命である。例えばいわゆる中国では、唐王朝以後唐末五代の混乱を経て、宋・元・清と王朝が変遷し、朝鮮では新羅・高麗・李氏朝鮮と変遷した。

 一方日本では鎌倉時代に武家政権が成立し、これを幕府と称した。この幕府は=武家政権の方は、東アジア諸国の王朝の交替のように家筋が替わり、鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府と移り替わった。この武家政権のよる国家を、ヨーロッパに倣って封建国家と呼んでいるが、(ただし「封建」の用語自体は、シナに由来する)それでは日本が完全にヨーロッパ型の国家になったかと言えば、実はそうではない。その理由は律令国家の総てが、消滅してしまったわけではないからである。すなわち律令国家の頂点の部分が、「朝廷」として武家政権時代においても生き続けたのである。この朝廷は天皇とその家臣たる公家衆(律令貴族の後身)で構成される、一個の社会集団である。つまり世界の何処にも見られない、日本独自の歴史的特徴は、朝廷と武家政権との並立・共存にあると言わなければならない。ただし両者の関係は歴史的に変動がある。一般的に言えば、時代を下るごとに武家政権が政治権力として成長して行く。従って鎌倉時代は未だ過渡的な段階であり、朝廷がわにも政治権力の実質をかなり残していたと言える。だからこそ鎌倉時代には、承久の変や建武中興などの倒幕運動が起こり得、後者の場合は一旦成功を収めることができたのである。しかし建武中興は結局失敗に終わった。そしてその後の南北朝の動乱期を経て、朝廷は完全に政治権力を喪失したのである。

 さて同じ幕末=武家政権でも、室町幕府は鎌倉及び江戸幕府と比較して、どのような特徴があるのであろうか。それは幕府の名称に端的に表れている。すなわち室町とは、京都の中の小地名であって、正確に鎌倉・江戸両幕府の表現に倣っていえば、京都幕府なのである。鎌倉・江戸両幕府は関東に所在したのに対して、室町幕府は京都に所在したのであり、つまり室町時代において、朝廷と幕府は京都という都市に完全に同居していたにである。これはあまり注目されない事実であるが、極めて重要な歴史的事実であると言わなければならない。この事実は朝廷と幕府との関係、すなわち朝幕関係に大きな影響を与えていないはずがないからである。

 しかも京都の中においても、朝廷と幕府の位置関係は極めて近接していたのである。天皇の住居である御所が現在の京都御所の位置に定着したのは、鎌倉時代の最末期元弘元年(1331)のことである。以後北朝の御所として使われ、南北朝合一に依って唯一の御所となった。この御所の敷地の西南の角が、南北通りである東の洞院大路と、東西通りである土御門大路との交点になるので、東洞院土御門御所と言う。ただし江戸時代以前は一町四方(応永年間以前はさらにその半分)の面積的に狭小なものであったことは、あまり知られていないが注意すべき事実である。現在存在する京都御所は、江戸時代を通じて東方及び北方に数次に渡って拡大された結果であり、当初よりは実に7倍も拡張している。では室町幕府はどこにあったのか。室町幕府の花の御所より二町分西へ、四町分北へ移動した所にあった。ただし敷地は南北に二町分を占め、御所の2倍の面積であった。幕府の西側の道路が室町小路であり、室町幕府の名称はまさにこれに由来する。すなわち朝廷と幕府は、目と鼻の先といえる位置関係にあった。

 従って室町時代においては、朝廷と幕府は極めて濃密な関係にあり、相互に直接的な影響を与え合ったのである。例えば室町将軍はしばしば、繁雑と言えるほど御所に参内している。このような背景の中に、いわゆる将軍の公家化という現象も起こってくる。室町将軍の花押というサインには武家様・公家様の両様があるが、将軍は単に官職の上で朝臣であるだけでばく、実質的にも朝臣であった。足利義満は朝廷行事=朝儀の運営責任者である上卿を勤めている。また将軍が直接公家集団に介入して家臣か化しており、将軍と特に関係の深い公家を昵懇衆と称していた。

 では朝廷と幕府の相互関係は、どちらに主体性がある関係であったのであろうか。応仁の乱以前の室町時代前半期で見る場合、その主体性はやはり新興の幕府=武家政権の側に在ったと考えざるを得ない。武家の公家かという現象も、将軍の朝廷=公家社会への介入を意味しているのである。とりわけ武家側の主体性は当時における文化の形成力に端的に表れている。室町時代の文化は、後世日本文化の典型と称されるものが多数生み出されているが、その成立には足利義満・同義教と言った強烈な個性を有した将軍が深く関与している。例えば正月に年始を祝して公家衆が、朝廷に揃って参賀する儀礼があるが、これは公家衆が幕府に参賀する儀礼を流用したものである。幕府への参賀の方が儀礼として成立が早いし、同日に行われて朝廷へは幕府の後になる。

 ただし室町時代前半期のいわゆる北山文化と言っても、単なる武家文化では決してないことには注意しなければならない。公家の文化を中心として、京都という土地に伝統的に存在して来た諸文化を、あきまで武家政権の権力と財力によって体系化したのが北山文化なのである。なお室町時代の京都は全国の都市の中でも真に隔絶した存在であった。京都には朝廷と幕府があっただけではなく、巨大な寺院や神社が幾つもあった。手工業と商業においては群を抜いていたし、その内部と近郊には豊かな農村地帯を抱えていたのである。この京都という大都市こそ、室町文化の基盤である。
3、 応仁の乱と朝廷
応仁元年(1467)いわゆる応仁の乱が勃発した。以後豊臣秀吉による天下統一が実現した天正18年(1590)まで、日本の歴史としては例のない、120年以上の長期に渡って戦乱の時代が続いたのである。その間に地域領主同士の抗争から戦国大名が生まれ、更に戦国大名の覇権争いから統一権力が誕生して行くのである。この応仁の乱は京都で勃発し、これが全国に波及して行くが、「応仁・文明の乱」と呼ばれることもあるように京都だけでも応仁元年から文明9年(1477)まで、足掛け11年間に渡って激しい戦闘が続いた。そのために天皇の住居である内裏は、応仁元年から幕府が焼亡する文明8年まで、幕府の中に同居していた。戦乱によって京都の大半は、とくに御所及び幕府のあった上京、殆ど焦土と化すことになった。ただし応仁の乱より10年程前康正2年(1456)に建てられた御所の建物は、奇跡的に戦国時代を生き残り、豊臣秀吉による天正末年の御所の全面的な改築まで存続した事実は、あまり知られていないようだ。

 この応仁の乱と朝廷との関係で見逃すことの出来ない事実がある。それは南北朝の動乱と比較して考えるとよく分かるのだが、朝廷は応仁の乱という政治的抗争の当事者すなわち直接の関係ではないと言う点である。南北朝動乱までは、皇室・朝廷自身が紛れも無く争乱の当事者であり、朝廷が2つに別れて相争ったのである。そして明徳3年(1392)に漸く南北朝が合一した。それから70数年後に起こった応仁の乱では、皇室が直接争乱に関与する現象は起こらなかった。この事実は、朝廷が完全に政治権力を喪失して、政治を超越した存在に昇華したことを意味している。

 さてここでこの戦国時代に在位した天皇について、概観しておこう。それは基本的に以下の4人の天皇であり、後土御門・後柏原・後奈良・正親町の各天皇である。後土御門天皇は応仁の乱勃発の3年前、寛正5年(1464)に践祚し、正親町天皇は秀吉の天下統一の4年前天正14年まで在位した。戦国時代の皇室が前後の時代と大きく異なることの1つは、殆ど上皇が存在しないことである。後花園上皇は応仁の乱勃発3年後、文明2年(1470)に崩御しているし、正親天皇は天正14年に後陽成天皇に譲位して上皇になった。またこの4人の天皇は、相互に親子関係であるから、父・子・孫・曾孫である。

 応仁の乱の勃発は、当然当時の朝廷に大きな影響を与えた。一番明確に表れたのは、いわゆる朝儀あるいは公事の廃絶である。朝儀あるいは公事とは律令国家の時代から朝廷で行われていた年中行事や臨時行事などの各種の公的な儀礼である。律令国家自体はすでに崩壊していたが、これらの律令国家的儀礼は数を減じていたとはいえかなり生き残り、当時の朝廷はこれらの行事を行うことこそが、その重要な任務となっていたのである。年中行事のなかで応仁の乱後も存続しえたのは、比較的簡略な行事であった元旦の四方拝のみである。正月の重要行事である元日・白馬・踏歌の三節会などは総て廃絶した。臨時行事で最も重要なのは天皇の即位関係の行事であるがの、大嘗祭は後柏原天皇以後は全く出来なくなった。即位礼は後柏原天皇の場合、明応9年(1944)践祚から22年経った大永元年(1521)に、後奈良天皇の場合、大永6年(1526)の践祚から10年経った天文5年(1536)に、漸く行うことができた。これらの古代以来の朝儀が突然出来なくなったのは、この経費を総て支弁することになっていた室町幕府が、応仁の乱を契機に急速に弱体化したのが、直接の原因である。戦国時代に朝廷では特に、年中行事の代表的存在である、正月の三節会の再興を図り、何度か実現したが、結局年中行事として再興出来なかった。

 さらに公家衆は本来天皇の直接の家臣であるから、京都を離れるべきではないのだが、戦乱を避けて多くのものが、親戚や有力者を頼って地方に下向した。文字通りの都落ちである。最も多いのは奈良で、摂関家など有力な公家が長期に渡って滞在した。興福寺などの寺院やその子院の住職に、兄弟などの近親者がなっていたからである。公家衆が寄寓した有力な戦国大名に、越前の朝倉氏、駿河の今川氏、周防の山口氏などがある。また九条政基が和泉国日根荘に、下向したように、動乱で脅かされる自己の家領の管理のため在国する場合も多かった。最近の研究によると、応仁元年から天正元年までの間に、自己の家領に在国したものは、公卿という上級の公家だけでも、延べ70人近くに達している。当時の公家衆は全部は数十家であるから、かなりの比率である。長期に在国する公家の中には、土着して武家化するものも現れた。土佐の一条氏、飛騨の姉小路氏などである。

 ここにいわゆる朝廷の「式微」状態が出現した。よく言われるのは、朝廷は経済的に困窮し、御所も荒れ果て築地が崩れ、三条大橋のたもとから内侍所の明かりが見えた、と言った類の話である。これは『白石紳書』に見える挿話だが、同書には、後奈良天皇の宸筆が世の中に多く出回っているのは、それによって収入を得られたからだとも、述べられている。また『老人雑話』には、信長の時というから正親町天皇の時代だが「禁中の微々成しこと、辺土の民屋にことならず、築地坏はなく、竹の垣に茨なとゆいつけたるさま也、老人児童の時は遊ひに往て、縁にて土なとねやし、破ふれたる簾を折節あけて見れは、人も無き体也」ということで、信長が御所を修理したのだと言う。話がどんどん荒唐無稽になっていることがわかる。

 しかしこの朝廷式微論は、戦後を通じて、面白おかしくかなり誇張されて宣伝されている傾向が強いと考えざるを得ない。戦国時代の朝廷の実態を調べてみると、決してそのようなものではない。経済的にいえば、皇室の所領は減少したとしても、それなりに収入は明らかに確保していた。奥野高広氏の研究(『皇室御経済史の研究』)によると、乱後も名前が判明し所在が明確な皇室御領が49箇所存在し、また大永元年(1521)から永禄12年(1569)までの年間の平均収入は750貫文であった。ただし奥野氏は室町時代前期の皇室の平均収入を7500貫文と推定しているから、収入が10分の1に激減したことは確かである。にも拘わらず当時の朝廷が沈滞していた訳では決してない。そのことは儀礼・行事の状況を見て行くとよく分かる。

 応仁の乱以後、朝廷のいわゆる朝儀・公事が廃絶したのは事実であるが、総ての儀礼・行事が廃絶したのではないのである。古代以来の朝儀は伝統はあるが、それだけ形骸化していて、儀礼として実態のないものも多かった。それらは滅んだが現実の生活に密着した儀礼は、戦国時代の朝廷においても着実に行われていたのである。それは正月を始めとする参賀、節朔ごとの御祝、生御霊、八朔、月見、亥子などと言った行事であり、天皇が主催する和歌・連歌などの御会である。またこれらの行事は、朝廷独自のものではなく武家や社寺など、その他の社会と共通する行事であることも、極めて重要な点である。従ってこれらを世俗的行事と言うことができる。

 戦前もそして戦後も、荒唐無稽な皇室式微論が流通したのは何故なのだろうか。戦前の場合は老人雑話の例で見るように、その後の信長や戦国諸大名による、いわゆる勤王事績をクローズアップするためには、その前提として皇室の式微状態が強調されなければならなかったのである。戦後の場合は、左翼歴史観の立場からは、古代勢力が封建時代にまで生き残った本質的に反動的な存在で在る朝廷が、窮乏・衰退するのは、当然の帰結と考えるのである。方向は逆であるが、両者に共通するのは朝廷・皇室を客観的に研究することをタブー視する態度である。

4、 皇室・朝廷の歴史における戦国期の意味
  俗説的に喧伝されている式微・沈滞のイメージとは全く逆に、戦国時代の皇室・朝廷は、その歴史の中でも最も生き生きと活動した時期であると私は確信する。生き生きと活動したとは、皇室・朝廷が自分自身の責任と判断で、主体的に活動したからである。更に主体的に活動したのは、そうせざるを得なかったからであるといえる。

 先述したように、応仁の乱以前の室町時代前半期は、京都に朝廷と幕府が同居したためもあって、幕府による朝廷への介入が強く行われた。それは将軍足利義満の朝廷への態度によく表れている。またその根底には、そもそも北朝の朝廷は、足利幕府が擁立したものだという、歴史的経緯が横たわっていたというべきであろう。その幕府が応仁の乱を契機として、急速に衰退に向かったために、当然朝廷への介入も弱まったのである。すなわち朝廷は自由を獲得した。ただしその反面、幕府からの経済的支援がなくなって、古代以来の朝儀が廃絶してしまったように、経済的には厳しい状況に立たされた。

 このような困難な事態に対して、朝廷側も自分自身の力で懸命の努力を重ねた。地方の朝廷の荘園すなわち御料所の年貢催促・徴収のために、公家衆が代官として現地に下向した。さらに戦国大名に朝廷への財政的支援を求めて公家衆が下向した。有名なのは山科言継が後奈良天皇13回忌費用のため、東海地方に赴いた例である。また京都自身が戦乱の地になったために、御所の警備にも努めなければならなかった。シナの宮殿と異なって日本の御所の防備は簡単な築地塀で守られているだけである。公家衆はグループを編成して、交替で宿直の版に当たった。これを小判番度という。小番はそれ以前から在ったが、戦国時代において格段に警備された。

 戦国時代の朝廷の置かれていた客観的な状況は、室町時代前半期と比較するだけでなく、江戸時代と比較した方が分かりやすいかもしれない。江戸時代になると朝廷は総てにおいて、幕府の丸抱えと言ってよい状態になった。天皇・上皇を始めとして皇族(親王家)・公家など朝廷の構成員には、幕府から知行が与えられた。公家の数もそれまでの倍以上に増加されて、100数十家になった。御所は何度も建て替えられ、その度に規模が拡大され、戦国時代の数倍になった。

 

 
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