虐日日本人の精神構造
 
『やすくに』 平成15年8月1日
酒井信彦 東京大学史料編纂所教授
 

 我が国の危機が叫ばれてから久しい。北朝鮮の国家権力にさらわれた人間を取り戻せないのも、デフレ経済危機に陥り且つ抜け出せないでいるのも、「男女共同参画社会」の錯乱も、要するに精神の問題であって、日本人の精神が余りにも不甲斐なくなってしまったからである。しかもそれは自然になったのでは無く、意図的に仕掛けられたものであり、その仕掛けの中心は明らかに歴史問題である。歴史問題の淵源は戦争直後の東京裁判にあるが、日本人の精神に大きな実害を与える様になったのは、約20年前昭和57年、侵略を進出に書き直させたと言う捏造情報から起きた、第一次教科書事件からであると私は考える。以後、総理大臣の靖国参拝問題、慰安婦問題、近年の教科書問題など一連の教科書問題に、日本政府が卑屈な対応を繰り返し、その被害はますます深刻化している。歴史問題によって、民族の誇りを奪われ、自身を喪失させられれば、精神力が弱体するのは当たり前である。有毒な食べ物を食べれば体を悪くするのと同様に、有害情報を注入されれば、頭がすなわち精神が虚弱になってしまうのである。

 しかし歴史問題の内容を落ち着いて考えて見れば、それは根拠のない言い掛かりであることは直ぐに分かる。侵略から進出への書き換えなど全く無かったし、靖国問題は国家に命を捧げた人々に対する当然の慰霊行為であるし、慰安婦は古今東西どこにでもある平凡な存在に過ぎない。日本は植民地支配の代償に、北朝鮮を援助することになっているが、植民地支配を謝罪し補償した例など、世界のどこにも無い。イギリスは世界の陸地の4分の1を支配していたのだから、補償など始めたらたちまち破産してしまうだろう。つまり歴史問題の本質は、一般に説明されているのとは全く逆に、日本人に対する言われ無き偏見・差別・迫害の問題なのである。砕けた表現を使えば、それは「いじめ」である。言葉すなわち情報による、精神に対するいじめなのである。したがって日本人こそ、歴史問題における被害者であるのに、それが完全に倒錯して理解されているのである。

 ところで歴史問題の多くは、日本初の問題であると良く言われる。教科書問題の一番の前提に、家永教科書訴訟があったし、慰安婦問題は左翼人権団体と朝日新聞の共同謀議によるものであることは確かである。このことが歴史問題の本質が、日本に対する偏見・差別・迫害であると言う事実を分かりにくくしている面があると思う。そこでこの点について、以下に私見を述べてみたい。戦後の日本には敗戦ショックによる共産革命願望があり、左翼勢力が大きな力を持った。それは当然、労働組合、マスコミ、大学などに浸透した。左翼勢力は日本が弱体であればあるほど、革命が起こし易いと考えたから、アメリカ占領軍の遺産である東京裁判史観と「平和」憲法の強力な護持者となった。しかし革命の願望が潰えた現在でも、その考え方は牢固として残った。と言うよりも、共産主義没落後、かえってそれに縋り付いて生きるようになった。なぜなら日本の過去を否定・告発することによって、過去を反省し謝罪する良心的人間を演じ続けることができるからである。これは明らかにこの上ない偽善である。したがって、これらの人々の考え方、活字媒体でいえば朝日・岩波的考え方は、偽善主義と呼ぶべきものである。その御用文化人である、大江健三郎・加藤周一などの人々は、「進歩的文化人」では無く、「偽善的文化人」である。

 彼らの言説がいかに矛盾に満ちた偽善であるかを、土井たか子衆議院議員を例に、もう少し説明しておこう。社民党は北朝鮮による日本人拉致を、無視するどころか否定さえしていた。しかし社民党はそもそもアジア人権基金と称する人権団体を持ち、土井議員はそのトップである代表理事である。ところがこのアジア人権基金は、アジアにおける人権侵害の大国、中共・北朝鮮の人権問題に、全くと言うほど沈黙する。意図的にでっち上げた慰安婦など日本の過去の問題を追及しても、中共・北朝鮮両国の現実に存在する深刻な人権問題を無視するのであるから、これはダブル・スタンダードのレベルを遙かに越えた、完全なデタラメである。なお辻本問題の際指南役として名前の出た土井議員の五島昌子政策秘書は、謀略裁判劇「女性国際戦犯法廷」の首謀者である松井やよりさん(故人)主宰するアジア女性資料センターの幹部である。

 彼らの本質が根本的に偽善者であることが判明すれば、彼らの考え方を「自虐史観」と表現することの、不充分さが明らかになってくる。自虐史観と言うネーミングは、それなりに便利で有効ではあるが、彼らの精神構造の特徴を見逃している。つまり「自虐」と言っても、彼らが自分自身に痛みを感じているのかと言えば、それは全く感じていない。彼らは始めから加虐の側に立ち、日本人を、日本という存在を責め続けているのである。同じ日本人である同法を迫害する行為が、一見自虐的に見え、更には反省的・良心的に見えるのである。すなわち自虐史観ではなく、正確に言えば「虐日」史観である。反日史観と言う表現もあるが、反日では余りにも弱すぎる。したがってより広く中共・韓国など諸外国を含めた日本いじめ・日本叩きの考え方を、「虐日イデオロギー」と呼ぶのが適切である。

 私がこう説明すると、彼らの考え方に反対の人の中にも、同じ日本人の場合そこまで悪質ではないだろうと考える人がいるかもしれない。しかしそれは極めて甘い判断である。私自身の反省も込めて言うのだが、歴史問題がここまで深刻化した原因には、日本の虐日偽善者たちにたいする我々の批判・攻撃が、余りにも不充分だったことを上げなければならない。虐被偽善者たちが同胞に対して、いかに残虐に振る舞うかを明らかにするには、大東亜戦争以後の歴史を客観的に回顧すれば良い。その中で私自身が体験した事件に大学紛争がある。昭和40年代前半、大学改革を唱えて左翼学生が紛争を起こし、多くの大学は長期休校に追い込まれた。私の見るところ、大学紛争とは学生の加虐エネルギーんの爆発に外ならない。人間は誰しも、他人を攻撃したい、痛め付けたい、自分の命令通り動かしたいと言う、密かな欲望を持っている。ただし普通には理性によってコントロールされている。大学改革の大義名分の下に、今まで偉そうにしていた教員をつるし上げる事ができて、彼らは無情の喜びを感じたのである。この教員をつるし上げるには、言葉の暴力はもちろん物理的暴力も結構使われたに違いない。被害者が恥ずかしくて明らかにされていないだけである。この大学紛争を極度に拡大したのが、中共の「文化大革命」であると考えれば良い。

 この物理的暴力の行き着いた果てが、左翼暴徒による爆弾テロ事件である。その代表的な事件は、昭和49年8月30日、今はブランドショップとして有名な丸の内中通りで起きた、三菱重工爆破事件である。「東アジア反日武装戦線」と名乗る極左暴徒が、「アジアを侵略する日本の軍需産業の中枢三菱重工業を攻撃する」と称して、同社の玄関前に時限爆弾を仕掛け、通行人など一般市民8人を虐殺し、数百人に重軽傷を負わせた、残虐無比な無差別テロによる殺人は、北海道庁や警視庁宅などでも起こしている。一連の大学紛争で、一貫して左翼学生に同情的だったのは朝日新聞であるが、朝日はこの爆弾テロ事件においてすら、極左の暴力に極めて寛容であった。朝日が口にする反戦主義・反暴力主義が、いかに欺瞞に満ちたものであるかは、朝日の報道の歴史を振り返って見れば、直ぐに分かる。

 日本人の虐日偽善者のメンタリティーを考える場合、「ドメスティック・バイオレンス」の概念を援用すると更に理解しやすいかもしれない。現在、ドメスティック・バイオレンスすなわち「家庭内暴力」の流行がマスコミで報ぜられている。子供が親を殴り、母親すら子供に暴力を振るう。それと同じように、虐日日本人の行動は、民族・国家の規模における、ドメスティック・バイオレンスなのである。極左暴徒のように、直接の暴力も振るうこともあるが一般的には言論による暴力が主流である。とすれば、物理的暴力によるテロがあるように、言論の暴力によるテロが存在するのである。結局、歴史問題とは、内外虐日勢力による言論を利用した、日本に対する卑劣極まりないテロ攻撃だと理解すべきなのである。

 ところで、物理的暴力と言論の暴力と比較した場合、前者の方がずっと単純であり、対処し易い。物理的暴力には取り締まる法律があるからである。それに対して言論の暴力は、「言論の自由」に大きく守られている。つまり言論の暴力・言論のテロの方が、遙かに始末が悪い。しかも虐日偽善者たちは、日本社会の中枢に堂々と大量に入り込んでいる。ではどうしたら良いのか。端的に言って、敵に学ぶべきである。彼らの方が、エネルギーとテクニックにおいて、まだまだ我々より優れている。基本的に言論の暴力には言論で反撃するしかないが、その際最も大切なのは、相手の攻撃を防御するだけでなく、こちらから積極的に攻撃を仕掛けて行くことである。個々の問題で虐日偽善者の言論に弁明・反論するのはそれなりに必要だが、彼らの偽善体質を解明し告発して行くことこそ、我々が最も力を注がなければならない課題である。その意味で、「百人切り競争」に関して、本多勝一氏、朝日・毎日両新聞社、柏書房を告訴したの、は大いに評価すべき動向である。攻撃が最大の防御なのである。

 最近、中共・韓国両国首脳が小泉首相との会談で、歴史問題を取り上げることを控える態度を見せた。もとも韓国大統領は国内からの批判を受け、最後の国会演説で地金を表してしまったが。ともかく教科書問題・靖国問題とりわけ拉致問題で、我が国にも漸く国家意識・民族意識の高まりが現れて来たことの反映であろう。すなわち日本側が強く出たからこそ、相手は少し引いたのである。それではこちらも相手を刺激することは控えようと日本側が考えるとしたら、それは全く愚かである。南京問題にしても、慰安婦問題にしても、我々は歴史問題において、巨大な濡れ衣を着せられたままである。この冤罪を晴らし、内外の虐日イデオロギーを撲滅するまで、懸命の努力を続けなければならない。

 

 
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