中華民族は侵略する
<中華思想に潜む危険性に日本人はあまりに無防備だ>
『ボイス』平成6年5月号
酒 井 信 彦 (東京大学助教授)
「すべての民族は中華民族だ」
「中華思想」という言葉がある。それはふつうシナ人の自民族中心主義的考え方、すなわち英語でいう「エスノセントリズム」のことだとされ、また自民族中心主義を表わす普通名詞にもなっている。自民族中心主義は、どこの地域どの時代にも見られる普遍的現象であるが、シナ人のそれは自己を中華と誇り、他を夷狄とさげすむ強固な文化的差別意識である。
しかし現実におけるシナ人の中華思想の本質は、けっしてそんな生易しいものではない。それは他民族に対するシナ人の侵略を現実化する論理であり、さらなる侵略を予告している侵略の哲学なのである。本稿の目的は、日本人がまったく見逃しているこの冷厳な事実を、できるだけ簡明かつ具体的に説明することにある。
そもそもある強固な思想が存在するとき、実力と条件が整えばそれは必ず発動されるものなのである。そのような事例は世界の歴史上いくらでも見いだされる。キリスト教の思想にもとづく十字軍や大航海時代の西洋人の行動はその典型であり、ヒトラーによるナチズムの思想と行動もまたしかりである。ただしこのような歴史理解は、島国で温和な精神的環境に育まれてきた日本人には、もっとも不得意なものであろう。
近年注目を集めている問題に、チベット独立問題がある。かつてソ連という共産主義の多民族国家があったが、ロシア人以外の異民族を支配する根拠を共産主義の民族理論に置いたため、共産主義が崩壊するとともに、その支配を維持できなくなった。では同じ共産主義の多民族国家である中華人民共和国(以下、適宜「中共」と略す)の場合はどうだろうか。
中共の場合、異民族支配の正当化の根拠を基本的に「歴史」に求めている。したがって、共産主義が崩壊したとしても国家の解体は許さない理屈ができている。では以下に、中共の異民族支配を正当化する論理を具体的に紹介することにしよう。中共の対外宣伝週刊誌『北京週報』1989年2月21日号の記事「『チベット独立』論に反論する」のなかに、次の記述がある。
「周知のように、中国は昔から1つの多民族国家である。(中略)いまの中国は中国領土内に生活する各民族(現在生活している民族および歴史上存在していた民族を含めて)がともに築きあげたものである」「元朝の中国統一は、中国各民族人民の政治、経済、文化の発展に大きく貢献した。蒙古族の支配者が中国統一のために進めていた国内民族統一戦争を、外国民族による征服と考える観点が間違っているのは、中国が多民族国家であるというこの基本的な歴史的事実に背を向けているからである。蒙古族が中国を統一して元朝を建立したことは、その後満州族が中国を統一して清朝を建立したのと同様に、いずれも中国国内の支配民族の交代であり、蒙古人または満州人が『中国を征服した』という問題は存在しないのである」
すなわち「中国」という実体をもった国家が古くから存在していて、それはずっと多民族国家であり、内部的に分裂しているときも統一されているときもあったが、非シナ民族の王朝の場合も支配民族が交代しただけで、けっして征服・侵略ではない、というのである。まことに途方もない歴史解釈である。
さて以上のような歴史観・国家観は、以下のような民族というものの解釈と、密接に関連している。
『北京週報』など中共の文献には、しばしば「チベット族同胞」という表現が出てくる。同胞とは一般に同一民族を指す言葉であるが、ではなぜチベット人がシナ人と「同胞」なのだろうか。じつは中共の民族概念は二重構造になっていて、広義と狭義の二様の民族概念があるのである。この点については、日本ではまったく注意が払われていない。
中華人民共和国は多民族国家であり、56の民族から構成されているとされる。それは人口の90%以上を占める「漢族」(シナ人)と、「少数民族」と呼ばれる非シナ人よりなっている。注意しなければならないのは、「少数民族」といってもシナ人と比較して少数という意味であって、1990年の人口調査によれば、人口100万以上の「少数民族」が18もあり、最大のチワン族は1500万を超えている。
これらの各民族は狭義の民族概念で、広義の民族概念は「中華民族」あるいは「中国民族」であり、すべての民族は中華民族であるとされるのである。すなわちシナ人だけが中華民族なのではなく、非シナ人も中華民族にさせられる。ここが大切な点である。
したがって中華民族として、チベット人とシナ人は同胞なのである。中共では「統一的多民族国家」という言い方をするが、統一的とは中華民族として統一されているという意味であり、これを「中華民族の大家庭」と表現する。この場合の家庭とは日本語の家族のことであり、つまり家族国家観である。この中華民族あるいは中国民族の生存する空間が、すなわち「中国」にほかならない。
非シナ人は中華民族なのだから、非シナ人の土地も中国である。ではこの「中国」の領域は、どこからどこまでかといえば、清帝国の最大領域だとの学説が中共において出されている。このような重大な事実も、日本ではほとんど注目されていない。
さてこの中共という多民族国家において、狭義の各民族はどのように位置づけられているかといえば、それはすべての民族は平等だということになっている。したがって中国とシナとを区別することは、多民族国家・中華人民共和国の大原則である。なぜならば上位概念である「中国」・「中華」と、そのなかの下位概念であるシナとを同一視することは、中共の非シナ人の存在を完全に無視することになるからである。しかしこれはあくまでも建前で、シナ人の本音はまったく逆である。ここもきわめて大切な点である。
それは簡単なことで分かる。中共ではシナ人のことを「漢族」、シナ語のことを「漢語」というが、シナ文は「中文」、シナ医学は「中医」といっている。頭隠して尻隠さずである。さらにもっと明白な証拠がある。中共は日本語における「シナ」・「中共」といった表現には積極的に干渉してくるが、立国の精神に根本的に反する日本語の「中国人」・「中国語」という表現にはまったく抗議してこない。
シナ人の本音が、中国とシナとの完全な同一視だということは、非シナ人を観念のうえで抹殺し、非シナ人の民族としての生存権を否定していることを意味している。つまり非シナ人はその存在価値をまったく認められておらず、根本的にシナ人に吸収同化されるべき存在として位置づけられているのである。
シナ侵略主義の祖・孫文
以上が、中共におけるシナ人の民族観・国家観の建前と本音のあらまし、中華思想の論理的構造である。ではこのようなシナ人の侵略主義的な考え方は、どのように形成されたものなのだろうか。
じつは共産主義が成立する以前、中華民国時代にすでに明確に出現していたのである。そのことを明らかにするために、以下に孫文の「民族主義」の変遷について見てゆくことにしたい。
1906年、革命をめざした「中国同盟会軍政府宣言」は、次の4箇条よりなっていた。すなわち、1、駆除韃虜、2、回復中華、3、建立民国、4、平均地権である。この4箇条が後に有名な「三民主義」となる。1と2が民族主義、3が民権主義、4が民生主義である。
したがっていま問題なのは、駆除韃虜と回復中華である。韃虜とは本来モンゴル人のことだが、ここでは清帝国の支配民族・満州人を指しているから、駆除韃虜とは満州人をシナの土地から追い出すことである。回復中華の中華は現在の公式的用法と異なり、シナのみを意味するから、シナ人の民族国家を再建することである。この点にくれぐれも注意していただきたい。すなわちここではシナ人の民族独立が、高らかに謳われている。この革命は、明が元を万里長城以北のモンゴルの地に追い払ったのと同性質の変革がめざされていたのである。
ところが、1911年の秋、辛亥革命が成功すると、とたんにこの革命の根本方針は変更されてしまうのである。翌1912年1月1日の「臨時大総統就任宣言」以後、一転して孫文は「五族共和」を唱えるようになる。五族共和とは、漢・満・蒙・回・蔵の5つの民族が、共同して中華民国という国家を運営することで、同宣言には「漢満蒙回蔵ノ諸地ヲ合シテ一国トナシ、漢満蒙回蔵ノ諸族ヲ合シテ一人ノ如カラントス、是ヲ民族ノ統一ト」(『孫文全集』下巻、原書房)と述べられている。
すなわち今日の中共の民族観・国家観の基本はここに発しており、そしてまた現在のチベット問題・チベットの悲劇の淵源も、ここに存在する。ではなぜ「五族」なのだろうか。
手軽な歴史地図帳(たとえば『標準 世界史地図』吉川弘文館)を見ればすぐに分かるが、清の版図は明の版図より何倍にも拡大している。明の領域は、北は万里長城、西はチベット高原(中共の西蔵自治区のほかに青海省全域、四川省西半、甘粛・雲南両省の一部を含む、本来のチベット全土)との境界によって区切られた地域にしかすぎないのであり、その他の広大な領域は、シナ人以外の4民族の土地なのである。
つまり革命が成功したとたんに、他人の土地に対するシナ人の領土欲が剥き出しになったのである。したがってシナ人の主張は、中華民国は清帝国の全領域をそのまま継承するとし、モンゴル人・チベット人などの独立は許さないと言い出したのである。
しかしモンゴル人は独立を宣言し、清時代の外蒙古が現在のモンゴル国になっている。実質的に独立状態であったチベットも独立を宣言して、東部チベットでチベット・シナ両軍が何度も衝突を繰り返し、イギリスの調停が行われた。この間の経緯は、調停の当事者タイクマンによる『東チベット紀行』(白水社)に詳しい。
当時、五族は「五大民族」と呼ばれ、建前においては平等を謳われていたが、シナ人の本音はまったく違っていた。しかもその考えをあからさまに広言するようになる。それが1921年、孫文の『三民主義の具体的方策』である。以下にその核心部分を紹介する。
「我等ハ今日中国ノ民族主義ヲ講ズルニ当タリ、五族ノ民族主義ハ之ヲ包含シ得ナイ。当然ソレハ漢民族ノ民族主義ヲ講ズベキデアル。或ハ五族共和ノ旗ヲ掲ゲテ既ニ久シイ今日、単ニ漢民族ノ民族主義ノミヲ講ズレバ満蒙回蔵四族人ノ不満ヲ招クト言フ人モアラウ。余ハ此ノ一事ニ到ツテハ、顧慮スル必要ハナイト思フ。(中略)余ノ現在考ヘテ居ル調和方法ハ、漢民族ヲ以テ中心トナシ、満蒙回蔵四族ヲ全部我等ニ同化セシムルト共ニ、彼等四族ニ譲歩セシメテ我等ニ加入セシメ、建国ノ機会ニハ、『アメリカ』民族ノ規模ニ倣ツテ、漢満蒙回蔵ノ五族ノ同化ヲ以テ一個ノ中華民族ヲ形成シ、一ノ民族国家ヲ組織シ、米国ト東西両半球ニ在ツテ、二個ノ大民族主義的国家ヲナシテ相照映スルニアル」「故ニ中国ノ将来ヲ論ズレバ、如何ナル民族ガ参加シ来ルトニ論ナク、必ズ彼等ヲ我ガ民族ニ同化セシメ、一ノ中華民族ノ国家ヲ成立セシメネバナラナイ。故に我等ノ抱持スル所ノ民族主義ガ積極的民族主義デアルコトヲ、諸君、決シテ忘レテハナラナイ」(『孫文全集』中巻)(傍線筆者・以下同)
ここに明確に、五族を合わせて1つの中華民族をつくること、ただしその中華民族とは漢民族のことで、満・蒙・回・蔵の四民族は漢民族に同化さるべき存在であることが表明されている。そのうえ「中国ノ将来」として、さらなる侵略まで予告されている。
なお1924年8月の「国民党第一次全国代表大会宣言」には、「即チ国民党ハ中国内ニ於ケル諸民族ノ自決権ヲ承認シ、且ツ帝国主義ト軍閥トニ反対スル革命ノ勝利ヲ得タル後、自由統一的ナル各民族ヲ自由ニ連合スル中華民国ヲ組織スベシト」(『孫文全集』下巻)と宣言されている。これによれば、非シナ人をシナ化し同化する方針は、廃棄されたかに見られるが、もちろんそんなことはない。これはあくまでも、列強と軍閥を打倒する革命が成功するまでの方便にすぎない。
この点について疑念の余地がないのは、まったく同一時期の24年初め、孫文が広東で行った三民主義の連続講演(今日『三民主義』の著作となっているもの)の民族主義第一講において、次のように明言していることからも明らかである。「では、中国の民族はというと、中国民族の総数は4億、そのなかには、蒙古人が数百万、満州人が百数万、チベット人が数百万、回教徒のトルコ人が百数十万まじっているだけで、外来民族の総数は1千万にすぎず、だから、4億の中国人の大多数は、すべて漢人だといえます。おなじ血統、おなじ言語文字、おなじ宗教、おなじ風俗習慣をもつ完全な1つの民族なのであります 」(『孫文選集』第1巻、社会思想社)
人口圧力による同化吸収戦略
中華思想、すなわちシナ侵略主義の最大の特徴は、この非シナ人をシナ人に同化・吸収するという、侵略の徹底性に現れている。ではその具体的方法は何かといえば、それは人口圧力である。つまり膨大なシナ人人口の海のなかで、非シナ人を溺死せしめるとう方法である。この人口圧力による同化吸収について、孫文は先の民族主義講演でしばしば言及しているが、そのなかにこんな一例がある。
「むかし、中国に『三苗を三危に放つ』という言葉があった。漢人が苗族を雲南、貴州の境域に追っぱらった結果、いまでは、苗族はほとんど絶滅に近く、生存もできなくなったが、これら三苗というと、元来、当時の中国の原住民だった」(『孫文選集』同上)
雲南・貴州・広西など中共の西南部は、満蒙回蔵の地ではなく「シナ本部18省」の内だが、非シナ民族の種類も人口も多い所である。これらの民族は、揚子江以南の地域に広く分布していたのだが、シナ人の南下によって西南部に追いつめられたのである。すなわち人口圧力による同化吸収という手口は、歴史的に見ても、シナ人のもっとも得意とするものなのである。もちろん孫文も同じことを計画した。『建国方略』第2章・物質建設(実業計画)には、第10として「満州・蒙古・新疆・青海・西蔵ニ対スル移民及開墾」が掲げられている。(『孫文全集』上巻)
なお、毛沢東が人口抑制にきわめて不熱心で、現在の膨大な人口をつくりだしたのは、侵略の武器とするためであったことは間違いない。また、「プロレタリアート文化大革命」の時代に、「下方」と称して大量のシナ人青年が、「辺境」と呼ばれた非シナ人地帯に強制移住させられたことは、いまだ記憶に新しい。
さて中華民国の時代には、国共内戦や日中戦争のために、シナ人の領土獲得の野望を実現する余裕はなかった。しかし中華人民共和国の成立によって、シナ人は巨大な軍事力を入手し、たちまち侵略に乗り出して、清帝国の領域をだいたいその版図に収めた。チベット人はシナ人の侵略に抗戦したが衆寡敵せず、51年5月に併合された。しかしそれでもチベット人の抵抗はやまず、59年3月、ラサにおける一大蜂起となって爆発した。
チベット人の主張では、シナ人の支配のために、人口の5分の1に当る120万人が非業の死を遂げたという。チベット文化の中核である仏教寺院も徹底的に破壊された。それは一般に信じられている文化大革命の一環ではなく、それ以前に行われたことは中共の当局者が認めている。(この点については、拙稿「また『中国』で歪められた『朝日』のチベット報道」『諸君!』平成2年1月号)
森林地帯である東部チベットでは、現在でも毎日々々巨大な樹木が乱伐され、アジアの気候に重大な影響を与えるチベット高原の自然は、破壊されつづけている。ダライ・ラマがたびたび警告しているように、侵略の決め手であるシナ人の大量移住は、着々と行われている(ダライ・ラマ『ダライ・ラマ自伝』文藝春秋)。その一方で、人口の少ないチベット人に対しても、産児制限が強制されている(ピエール-アントワーヌ・ドネ『チベット=受難と希望』サイマル出版会)。シナ人がチベットでやってきたこと、やっていることが侵略でないのなら、そもそもこの世に侵略なるものは存在しえない。
冊封関係の歴史も武器に
以上が中華思想なるシナ侵略主義の理論とその実践についての概説である。ではシナ人による今後のさらなる侵略は、どのように準備されているのだろうか。
先に述べたように、中共では「中国」なるものの範囲を、清帝国の最大領域とする主張がなされている。とすれば、モンゴル国は当然その中に入る。毛沢東はソ連に対してモンゴルの併合を要求したし、現在台湾で出されている中華民国の地図は、モンゴルも含めている。また現ロシアのアムール地方や沿海州、カザフスタン領のイリ地方も同様に清の領土であった。
侵略の可能性はそれだけではない。大切なポイントは、民族概念の二重構造である。中共の非シナ諸民族は中華民族として、シナ人とともに「中国」をつくりあげてきた、と説明されている。それらの民族は中共国内だけでなく、周辺の国々にも存在することに注意すべきである。モンゴル人はもちろんのこと、朝鮮人・カザフやキルギスなどトルコ系の人びと・ベトナム人・タイ人は中華民族のなかにもいるし、独立国ももっている。国家のない民族ならば、さらに多数の民族が東南アジア諸国と共通している。中共の中華民族と同一の周辺諸国の民族が、中華民族にさせられる可能性は、すでに論理的に準備されているのである。
もう1つシナ人が周辺諸国を侵略する武器に使うと考えられるのは、冊封関係の歴史である。冊封関係とは、歴代王朝の皇帝と周辺諸国の国王・首長とのあいだに結ばれた主従関係で、深浅さまざまな程度があるが根本的に支配関係ではない。主人側を宗主国、従う側を藩属国という。清帝国の藩属国には、朝鮮・琉球・ベトナム・タイ・ラオス・ミャンマーなどがあった。朝鮮は歴史を通じて藩属国であったため、独自の年号をもてなかった。じつは、チベットは、元・清両帝国の版図に含まれたが独立的存在で、両王朝との関係は冊封関係としての傾向が強かった。明の時代は完全に独立していて、その関係は冊封関係だけである。しかもこの3王朝皇帝はチベット仏教の信者であったから、これらの関係は師檀関係としての色彩を帯びていた。(坂野正高『近代中国政治外交史』東京大学出版会)
ところが中共の主張は、元時代以後はチベットはつねに中国の一部であり、中央政権が主権を行使していたとするのである。これはきわめて犯罪的な歴史解釈である。
「大和族」も例外ではない?
では次に、日本そのものに対するシナ人の侵略の可能性を検討してみよう。まず中華民族の問題である。日本人は中共の「少数民族」のなかに含まれているかといえば、それは含まれていない。したがって朝鮮人やタイ人のような心配はないかというと、そんなことはない。少数民族であるかないかは、中共の行政機関が決めるのであり、そうしようと思えば、いつでも簡単にできるからである。
じつはかつて、日本人を「大和族」として認定した、と報ぜられたことがあった。『毎日新聞』昭和58年12月11日付に、「中国農工民主党の中央委員候補に選ばれた元日本人の山口和子さんの民族名として『大和族』が『人民日報』で使われた」と書かれているのである。
次いで冊封関係は、日本の場合、聖徳太子以前には行われていたが、その後は正式の冊封関係なしに大陸との通交を続けた。ただし後代室町時代に、将軍足利義満が日明貿易を行うために、明皇帝の冊封を受ける挙に出た。これには当時から強い批判があったが、室町時代を通じて行われた。このように日本は基本的に冊封関係なしにやってきた珍しい国である。
ただしシナ人の側は、日本との関係を実質的に冊封関係だったと考えるだろう。それはシナ人がつねに自己の文化的優越性を誇り、日本が大陸の諸文化を多く受容したことをもって、文化的属国と考えるからである。この点は日本人としてとくに注意しておかなければならない点である。
日本は律令国家成立のころ、大陸より多くの文化的要素、たとえば漢字漢文、律令制度、漢訳仏教、建築・工芸などの物質文化を取り入れて、当時における近代化を図った。現代の朝鮮人は、1千年以上も前に大陸の文化を日本に伝えたことをもって、日本人に対する優越感の重要な根拠としているが、文化を生み出したシナ人にしてみれば、その感情はよりいっそう強いにちがいない。
では現在、冊封関係や文化的影響を与えた歴史に基づいて、シナ人は日本人に対して具体的に何をやってきているだろうか。まず冊封関係についていえば、最近中共の要人が来日するたびに、わざわざ九州の福岡市博物館に、志賀島出土の金印を見にいくが、これは過去の冊封関係を現在において再確認する儀式である。また一昨年秋、天皇陛下が中共を訪問された際、中共側が陛下に印章を贈呈しようとした(『フォーサイト』平成5年2月号)のは、冊封関係になぞらえたからにほかならない。
さらにこの御訪問のハイライトある歓迎晩餐会における楊尚昆国家主席の挨拶に、次のような部分がある。
「中華民族と日本民族はいずれも偉大な民族であります。勤勉かつ英知に富んだ両国国民は長い交流往来のなかで互いに学び合い、助け合い、深い友情を結びつけ、人類のオリエント文明に貴重な貢献をしてきました」
まずここでいう「中華民族」とは公式的な使い方だから、シナ人だけでなく中共を構成する民族の総体である。ところで、この文中に「オリエント文明」という奇怪な言葉がある。日本語でオリエント文明といえば、メソポタミアなどの中近東文明のことである。しかしこれが中近東文明であるわけがない。シナ語の原文(『日中国交基本文献集』下巻、蒼蒼社)によれば、それは「東方文明」となっている。この東方文明が、いわゆる「中華文明」・「中国文明」と同義語であるのは、いうまでもないだろう。そこまで明確にいうことを控えているだけである。
したがって、楊尚昆の挨拶に込められているのは、日本人は中華文明の受容者なのだから、中華民族にいれてやるという含意である。このような実態をカムフラージュするために、苦心して生み出されたのが「オリエント文明」という訳語なのだろう。
政治支配者は外交の場において言葉を飾るが、庶民は本音をいってしまう。1985年、中共に留学してすべての1級行政区を旅行した日本人の学者は、軍隊あがりの若者から、日本も冊封関係をもった時期があるのだから、中共は日本に対して領土権を主張できると明言された。(小島朋之・古川末喜両氏の対談「中国版ペレストロイカは第2の『洋務運動』だ」『諸君!』昭和63年8月号)
中華人民共和国は侵略国家だ
以上述べてきたことを整理すれば次のようになる。(1)中華思想とはたんなる自民族中心主義ではなく、シナ人の侵略の哲学である。(2)侵略の方法は、まず中華民族とすることによってその民族の土地を奪い、次いで人間そのものを人口圧力でシナ化する。(3)中華思想の理論は、シナ人の伝統的やり方が、孫文の民族主義として纏められたものである。(4)シナ侵略主義は中共国内で実践され、いまもされつづけている。(5)中華思想の論理は、さらなる侵略の可能性を内包している。(6)その侵略の対象に日本も含まれうる。
日本がシナ人に侵略されるというと、なにを荒唐無稽なと考える人がわが日本ではほとんどかもしれない。しかしシナ人は現実に中共国内で毎日々々侵略を実行しているのであり、さらなる侵略の理論も十分に整っている。
そういう人びとの経済力が、台湾・香港・東南アジア華僑および日本の力を利用して大発展すれば、すでに水素爆弾も大陸間弾道弾も所有している中共の軍事力は、さらに飛躍的に増大して、名実ともに超大国が出現する。強大になれば傲慢そして横暴になるのは人の世の常である。もともと尊大な性格のシナ人であればなおさらだ。そしてそれに相呼応して、華僑と呼ばれる在外シナ系人も中華意識丸出しで動きはじめるだろう。というよりもすでに、動き出している。
私がいいたいことを一言に要約してしまえば、それはきわめて簡単なことである。王様は裸だ、中華人民共和国は侵略国家であるといっているだけなのだ。
これは20世紀の民族独立の歴史を虚心に顧みれば、あまりにも自明である。にもかかわらずほとんどの日本人が、このことを理解できないのは、あるいは理解しようとしないのは、いったいなぜだろうか。
それは日本人が精神を侵略されているからである。私はシナ人の日本に対する直接侵略の可能性を警告したのだが、日本人の精神はすでにシナ人による間接侵略を被っている。日本人の精神が侵略されている明らかな証拠は、日本人がシナ語・シナ人という意味で、「中国語」・「中国人」という言葉を平気で使うことである。天皇陛下も中共を訪問された際、チャイナすなわちシナの意味で、「中国」という言葉をことさらに使われたという。(『文藝春秋』平成5年7月号、三浦朱門氏発言。『朝日新聞』平成4年10月24日朝刊、3頁)
しかし先に述べたようにこの言葉は、非シナ人はシナ人に同化吸収さるべしという、シナ人の本音を表明した言葉である。つまりこの言葉こそ、中華思想すなわちシナ侵略主義のキーワードにほかならない。日本人はこのような言葉を使う精神の奴隷状態から、1日も早く自らを解放しなければならない。中華思想の廃絶なくして、アジアの平和などありえない。