慶事のお振る舞いはこれでよいのか
皇太子殿下に諫言する
<開かれた皇室のもと、男女の私事の公開を執拗に迫る質問に、なぜ、律儀にお答えになったのか?>
酒井 信彦(東京大学助教授)
『諸君』平成5年(1993)4月号
【衰微から形成した皇室の原型】
今年の年が明けると間もなく正月六日の日に、皇太子妃が事実上決定したとの報道がなされた。そして十九日、皇室会議が開催されて正式な決定がなされ、同日皇太子殿下・小和田雅子嬢ご両人の記者会見がもたれて、その一問一答がマスコミによって詳しく報道された。この皇太子決定に対する各界の反応が、皇室の慶事であることからして、これを祝福するものが殆どであったのは、けだし当然である。しかし私個人としては率直なところ、この記者会見に関して多々釈然としないものを感ぜざるを得なかった。そこで本稿では、私なりに皇室の歴史を振り返り、その上で皇太子妃決定後の記者会見に示された皇室の現状に対して、忌憚のない感想を述べさせていただきたいと思う。
日本の歴史を虚心に見ればすぐ分かることだが、日本は極めて特殊な国である。古代においては東アジア諸国と同じ律令制度を有しながらそれが途中で潰れ、西洋諸国と類似した封建国家となってしまった。では完全に西洋型の国家になったかと言えば、そうではない。律令時代の政治権力者であった天皇と律令貴族の後進である公家は、封建国家において権力を喪失しながらも、朝廷という社会集団を形成して存続していた。すなわち日本の中・近世に見られる朝廷とは、世界史上に類例を見ない、極めてユニークな存在である。そして近代以後、旧公家は旧大名とともに華族となり、第二次大戦後その華族も消滅して、現在では皇室のみが残ったのである。
現憲法で天皇は日本国の「象徴」とされているが、政治権力の喪失を象徴化と考えれば、日本の皇室ほど象徴としての歴史の長い王室は世界にない。ヨーロッパの王室も近代化の過程で象徴化を遂げて行ったが、日本の皇室は遥かに以前、十四世紀から完全な権力喪失状態になっていたからである。単に、万世一系だけで貴いわけでない。
もちろん日本の皇室にも危機はあった。朝廷が最も衰微したのは戦国時代であると言われている。古い表現で言えば、「朝廷の式微」である。この時代皇室は、特にその経済力が衰えただけでなく、皇室を支えてきた室町の力が衰亡したため、歴史上最も窮迫した状況に追い込まれた。戦乱を避けて、摂関家を始めとする多くの朝臣は、京都から地方に逃げ出してしまった。しかしこの窮迫時代こそ、現在に至る皇室の原型を形成した極めて重要な時期であると私は考える。政治権力も経済力も喪失した朝廷は、文化に生きる体制を確立したのである。その文化こそ宮中の儀礼であり、和歌であった。今日日本文化と認識されるものには、室町時代に形成されたものが多いが、そこには当時の朝廷が深く関わっていた。今日日本文化と認識されるものには、室町時代に認識されたもの多いが、そこには当時の朝廷が深く関わっていた。日本の皇室はこの戦国時代の苦境をくぐり抜けることによって、表面は柔和だが心の強い精神的体質を獲得したのだと私は判断する。以後、江戸時代においては、時代を下るごとに徳川幕府が朝廷を尊重するようになり、それは京都御所の大きさの変化に如実に現れている。すなわち江戸時代に、京都御所は八回建て替えられたのだが、その度ごとに規模が拡大されて、現在我々が目にするものになったのである。
【饒舌は似合わない】
ところでご婚約が確定した日の記者会見で、皇太子殿下・小和田雅子嬢のご両人ともに、とても饒舌にお話になっていたのがまことに印象的であった。このことについては、一般に好印象をもって受け取られているようだが、私は正直に申し上げて大きな違和感を感ぜざるを得なかった。そもそも日本の文化の本質に、穏やかさと控えめがある。それは日本人自身より外国人のほうが明確に認識している。たとえば韓国出身の女性・呉善花さんの本は、日本文化の本質を実によく観察している。同じ韓国人の李御寧氏の日本文化論に比べて圧倒的に優れているが、李氏の著作ほど日本のマスコミで評判にならないのは、あまりにも本質を突いているからであろう。呉善花さんの最近の著作『新スカートの風』には、女性の美しさというものに対する日・韓の顕著な相違が見事に明らかにされている。そのポイントは、韓国女性が一見綺麗に見える原因は、自分を美しく見せようとする強い意志にあるとの指摘である。それは当然化粧の濃さ、つまり厚化粧となって現れる。同じように色彩感覚も日本と韓国では大きく異なり、韓国ではハッキリした派手な色彩が好まれるのに対して、日本では地味なくすんだ色彩が好まれるという。視覚における相違は、他の領域たとえば言語表現においても発見できる。日本人は物事を断定的に言ったり、大げさに言ったりすることを好まない。控えめな受動的表現を取りたがる。この点については、呉さんの『スカートの風』に詳しい。世界を見渡したところ韓国方の感覚が一般的で日本の方が明らかに例外である。この日本人の言語表現における消極性は、宗教の場で顕著に表れており、神道は教典に拠らない宗教である。そして神道こそ皇室の所有する文化の中核であることは言うまでもない。従って日本文化の代表者である皇室の方々にとって、饒舌は最も似合わない。皇室の方々の言語表現は、必要最小限のことをお話になれば良い。最小限のことを仰って、あとは静かに微笑まれていれば宜しいのである。
【唖然とする質問の軽さ】
御二方の記者会見の内容について考えてみよう。私はテレビの放送を少ししか拝見しなかった。あまり拝見する気になれなかったからである。したがって新聞に掲載された記者会見の一問一答なるものによって述べさせていただく。
記者会見の質問には以下の様なものがあった。
@ 皇太子様のプロポーズの時期と場所、その言葉はどのようなものだったでしょうか。また雅子様の返事の時期と言葉はどのようなものだったでしょうか。
A 雅子様は皇太子様のプロポーズのあと、いったん固持されたと聞いておりますが、心の葛藤はどのようなものだったでしょうか。
B 初めて会った時のお互いの印象と五年振りに再会した時の印象、そしてどこに惹かれたのかお聞かせ下さい。
この東宮御所で行われた記者会見は、記者側で質問事項を作成し、宮内庁にも了解を取って行われたのであろうが、この中身の軽薄さに驚く。これでは一般の芸能人に対する質問と全く変わりがない。私は関心がなかったのでテレビも新聞も見ていないが、結局破談に終わった例の「貴・りえ婚約」の記者会見も、大差なかったのではないか。すなわち記者側は御二人を完全にタレント扱いしているのである。そこで問題なのは、御二人がそれに対して律気に詳しく、御自身の考えを御述べになっている点である。ハッキリ申し上げて、御二人はこのような質問に正直に御答えになる必要はなかった。というより御答えになってはいけなかったのである。ここで質問されているのは男女の感情に関わることであり、それはあくまでも私情である。皇室の方々は、断じて私情を饒舌に語られるべきではない。
今回の御婚約に関して、皇太子殿下の積極的な御姿勢を賞賛する人が多いが、果たしてそうだろうか。結婚は当人同士が良ければいいと言うものではない。我々庶民においても少し格式を重んじる家では、嫁選びは極めて慎重を期するものである。我が国最高というより世界的に見ても飛び抜けた格式を有する我が皇室において、私的感情以外の諸条件が考慮されるのはあまりにも当然のことである。そしてまた、人間の感情というものが移ろいやすいのも、この世の常である。プラスの感情がマイナスの感情に変化する事例を、我々はいくらでも見いだすことができる。現に英国王室がそうなっている。
さらに記者会見の質問事項には、次のようなものまであった。
C 外交官という職業を捨てることに悔いはありませんか。また皇室入りを決意させたものは何でしょうか。両陛下・皇太子様から不安をぬぐい去るようなお言葉はありましたか。
D かつて皇后様が嫁がれたとき、慣れない皇室の生活などで苦労されたと聞きますが、仮に雅子さんにそういうことがあった場合、皇太子様はどうやって雅子さんを支えられるおつもりでしょうか。
外交官の職業と皇太子妃の御位とを比較考慮しようとする発想自体が異常である。遂に日本の皇族の位は一役人地位に比べて論ぜられるようになったのだ。そして質問Cの後半部分に関する皇太子殿下のご発言とされるのが、例の新聞の大見出しとなった「全力でお守りします」であった。先の三つ質問が男女の感情とすれば、あとの二つの質問はキャリアウーマンのキャリア断念及びお嫁さんの婚家への適応問題である。総じてこの記者会見で質問し応答することによって語られているのは、徹頭徹尾私的問題すなわちプライバシーである。つまり御二人はプライバシーの切り売りをなされているのであって、これこそ先程指摘した皇族方のタレント化・芸能人化にほかならない。すでに以前からマスコミの皇族報道にそのような傾向が顕著に見えていたが、実にこの記者会見の如きクライマックスに至ったのである。
この記者会見では、「私」のみが実に饒舌に語られているが、「公」についてのご発言は極めて少ない。わずかに「どのような家庭を築いていきたいでしょうか」という質問に対する御答えの中で、殿下が「安らぎのある家庭というのは、私たちがこれからさまざま公務を尽くしていく上でも、また次代の子どもたちにとっても、非常に大切なのではないかと思っております」とお述べになっているだけである。そしてここで言われる公務も、皇族としての日常的な御仕事のような極狭い範囲の「公」を指しているものと考えられる。もちろんこうなった根本的理由は記者会見における記者側の質問に「公」に関する事項が全くなかったことによるのである。しかし私はこの際、至高の公人としての御発言をいただきたかったと思う。では私が言う「公」とは何なのか。日本国憲法に天皇は日本国民統合の象徴といっている。この象徴という言葉が適当か否かはともかくとして、天皇という人格的存在は日本を代表する「顔」に違いない。この点において皇室は一般国民とは明らかにちがう。その極端なあらわれは、皇室には姓がないということである。日本国民全体を包みこんで、それを代表する立場、それが私のいう「公」であり、より正確に言えば文化の代表者としての「至高の公」である。この「至高の公」をになわれた人格は、血縁によって相承されなければならないがゆえに、皇室の御結婚は日本国民こぞって祝福すべきものとなるのである。すなわち、皇太子妃が決定され、御結婚を迎えられようとするそれ自体が「公」である。この時期に、皇太子という次代に天皇になられる至高の公人としての御心構えを、我々国民は殿下の御口から承りたかったのである。
大事な点は何度も繰り返して言おう。皇室の方々は、私的側面を我々に知らせていただく必要はさらさらない。もちろん皇族の方々といえども人間であられるのだから、私的感情・私的お好みを豊富にお持ちいただくのは一向にかまわない。しかしそれは我々にお知らせいただく必要はないのである。それはどうしてかと言えば、皇族の方々といえども我々一般人、私的側面においてはそれほど異なるはずがないからである。皇族の方々の私的側面を知らせていただけばいただく程、それは我々と何ら異ならないことがあきらかとなる。ということは、タダの人となられてしまうのであり、それは皇族であることの存在価値を喪失することである。そのような人々を我々は尊敬することができない。またそんな情報にはすぐ飽きる。芸能人・タレントが次から次に使い捨てられるのはそのためである。つまり皇室と我々の距離が近づけば近づくほど、皇室の存在価値は減少する。ここにこそ、「開かれた皇室」論の根本的誤謬がある。
特に最大問題は、この記者会見がマスコミ側によって仕掛けられたものであるが、御二人がその仕掛けに積極的に対応されているという点である。皇太子殿下も小和田雅子嬢も、記者連中に簡単に誘導尋問されるような方ではあるまい。にもかかわらず質問に答えられて、実に活発に発言されているということは、御二人ともに開かれた皇室論的御考えを御持ちであると拝察せざるを得ない。とりわけ生まれながらの皇族であられる皇太子殿下御自身が、開かれた皇室論の支持者であられるとすれば、ことは極めて重大である。
【天皇家の思想は変わったか】
今回の記者会見には、とにかく唖然とした、というのが偽らざる実感である。ではなぜ皇太子殿下まで開かれた皇室論の信者になられているのであろうか。ここでその理由をしっかりと考えておかなければならない。これにはそれなりの歴史的経緯があるはずである。その淵源は我が国が有史以来の大戦争に敗北したことである。この敗北にもかかわらず我が国では皇室が存続したばかりでなく、昭和天皇の退位すら起きなかった。これは巨大な敗戦を蒙った国としては歴史上かなり珍しい現象である。したがって
昭和天皇という一つの人格によって、戦前と戦後は見事に連続した。一方で敗戦に伴う農地解放など巨大な変革が行われたにもかかわらず、昭和天皇という存在の連続性によって、我々はそれを容易に受け入れることができたのだ。
しかし実際には皇室そのものに対しても、明確な変革の手は及んでいたのである。その強力な一撃が昭和二十年十二月の神道指令であった。それはさらに皇太子殿下に対する教育にまで及んだ。すなわちエリザベス・ヴァイニング夫人なるアメリカ人女性が家庭教師として登用され、明仁親王殿下十二才から十七才までの御教育に当たったのである。そこではいわゆるデモクラシーのみならず、その前提をなす西洋的価値観が教育されたであろうことは、想像に難くない。さらに皇太子殿下の御妃として、幼少時よりキリスト教の教育を受けられた聡明な女性が選定されことは極めて重要な点である。今回の皇族会議では、出席者から何の質問もなく決定したとのことだが、前回の場合には「美智子様さまはキリスト教信者ではないのか」との質問が出て、それに対して「洗礼を受けられていないから問題はない」との回答で決定したといわれる。更に天皇・皇后両陛下ともに、昭和一桁後半のお生まれで終戦時に小学校高学年であり、多感な時期に教育の大転換に直面された世代であることも、御二人のお考えに関係しているかもしれない。
したがって両陛下が、戦後的な欧米流進歩主義に、深い御理解をもたれていたとしても、特に不思議ではないと思われる。そしてそのような御考えは皇室のありかたそのものにも適用されるはずである。とすれば、その御両親から生まれた皇太子殿下が、開かれた皇室論的御考えを御持ちになるのも、うなずけるところである。皇室改革についてのとりわけ御母上御考えが、皇太子殿下に深く及んでいることは、今回の記者会見における殿下の御言葉の端々に、よく現れていると言えるだろう。
すでに戦後の皇室にビルトインされていた皇室変革の動きは、昭和天皇の御晩年からようやく明確になったようである。『週間文春』昭和五十八年一月二十日号には、昭和五十年頃から天皇陛下の御高齢などを理由として、各種宮中祭祀の簡素化的改変が進行している事実が報告されている。私自身、宮中祭祀の現状については全く存じ上げないが、旧儀に復されることを願うばかりである。
昭和天皇御在位中から変革が始まっているとすれば、崩御後はその速度が一層速くなっているはずである。最近目にした事例では、昨年(平成四年)十二月二十四日の産経新聞朝刊に、重大な事例が報ぜられている。それは警察当局が平成五年から、天皇皇后両陛下の都内の私的外出に限って、その警備体制を大幅に縮小する方針を固めたというのである。さらに記事は次のように述べる。「警察当局がこうした方針を決めたのは、両陛下の私的外出が急増したのが主な理由。昭和天皇の晩年でのお出かけが年間二十〜四十回だったのに対し、即位後は四百回前後に。今年、一月〜九月での三百回のお出かけのうち、二百五十回は赤坂御所から皇居への御通勤のほか、テニス、スケートや知人との懇談などの私的外出だった。多数の要員を配置する皇室警備が一日に数回に及ぶこともあり、これに伴う警察の市民サービスの低下への懸念や人員難の問題が浮上し、今回の措置に踏み切った」。この記事の書き方では、現御所から皇居への御通勤が公的なのか私的なのか曖昧なので、皇居内の新御所が完成すればその分減少と思われるが、それにしても前代に比して、私的外出の大幅な増加があるのである。古来天皇皇后の外出は、行幸・行啓と称して重大視した。江戸時代までの天皇は、殆ど外出されることはなかった。現代においてそのようなことが可能なわけがない。しかし外出に抑制的なられることは、皇室の貴い伝統と言えるのではないか。また私が最近の皇室について不可解に感ずることに、皇太后陛下に関する情報が少しも我々に知らされないことがある。これでは余りにも閉ざされ過ぎではないか。天皇御一家というとき、その最年長者であられる皇太后陛下も、当然重要な一員であるはずである。にもかかわらず皇室御一家の慶事である今回の皇太子妃決定の一連の報道の中に皇太后陛下の御動勢・御言葉などは、全く伺われなかった。では何故そうなるのであろうか。そこにはもちろん皇太后陛下の御健康問題が関わっているであろう。だがそれだけではあるまい。皇太后陛下の御存在に目を向けることは、昭和天皇への回顧につながるからである。皇太子妃決定のニュースも、いくらアメリカのマスコミにすっぱ抜かれた結果とはいえ、昭和天皇の三年祭当日に、大々的に報道されたのである。
【参賀の数字は何を語るか】
ところで私は現在の皇室について、もう一点気掛かりなことがある。先に皇太子殿下の「私」に関する活発な御発言について申し述べたのだが、極めて心配なのはそれが「公」の部分にまで及ぶことである。ただしこの「公」は、先に述べた「至高の公」つまり「国民統合の象徴」としての「公」ではなく、最も下世話な政治、外交にかかわることである。現に4年前、昭和天皇崩御の直後に、たちまちそのような心配が発生したことがあった。それは一月九日、即位後朝見の儀において、今上陛下の御言葉の中に「日本国憲法を守り」とあったのを、一部マスコミが直ちに取り上げて、「護憲天皇」とはしゃいだことである。「護憲」は今日、陛下の御言葉の本来の意味を離れた政治的な言葉になっている。彼らは常々、「天皇の政治利用」を糾弾して止まないが、自分達のために利用できるとなればたちどころに「天皇の政治利用」を敢行するのである。
国内勢力が行うくらいなら、権謀術数に長けた外国勢力が行わないわけがない。中国が執拗に要求し続け、ついに昨秋実現せしめた天皇陛下の御訪中こそ、まさにそれである。したがって皇室の方々に最も注意していただかなければならないのは、政治に関わる御発言である。ましてや新皇太子妃の御夫君が外務省のトップであり、ご本人も外務官僚であられたのであるから、慎重の上にも慎重を期していただきたい。
さらに付言すれば、政治に関わる問題とは違うが、先の記者会見の中で、皇太子殿下ご自身が「お后選び」の遅れた原因に言及され、「チッソの問題」云々と仰ったのは、やはり軽率と申し上げるほかない。その間の事情を国民に知らせる必要があるのなら、それは宮内庁が行えばよいことである。とくに「チッソ」という企業の固有名詞は、お立場上、慎重にお避けになるべきであった。その理由の一つに、殿下の記者会見を聞く今日のチッソ社員に対するお気遣いが含まれることはいうまでもない。
現在の皇室は、内部的にも大きな危機に立っていると私は考える。ではどうしたらよいのだろうかと言っても、明快な解決策などあり得ない。
ここに近年、皇室に対する国民の意識の動向を示す興味深い数字がある。それは、天皇誕生日と正月二日における、皇居への参賀者の人数である。平成の世における参賀は、正月、天皇誕生日とも、昭和天応崩御のため三年から始まった。正月の参賀では三年が七万七千人、四年が八万であった。この数字は昭和天皇の最晩年、六十二、六十三年の数字とほぼ同じである。しかし昭和天皇の場合、六十、六十一年にはともに十三万人を越えており、平成の二倍近い人々が参賀していた。しかも本年平成五年には、五万三千人にとどまっているのが憂慮される。天皇誕生日の場合はどうであろうか。平成では、三年が一万七千人、四年が約一万人という数字である。これに比して、昭和天皇がお元気であった昭和六十年代の初頭、六十、六十一年には八万人を越える人々がやって来た。平成の場合、十二月二十三日という日取りの悪さもあるが、その顕著な相違に驚かされる。総てはまず、現実を直視するところから始めるしかない。そして皇室も日本全体も、虚心に且つ主体的に自己の歴史に学ぶことである。
※(小見出しと仮名遣いに若干修正を加えています)
主権回復を目指す会代表 西村修平(平成18年9月)