【業績は対日精神侵略の推進・完成】
政治家の評価は本人の主観的願望や人間性の問題ではない。ましてや、その政治家に期待する世論の支持層にあるわけなどではない。全ては業績という結果のみである。
当会は昨年、平成18年11月『安倍政権で完成したシナ・中共による対日精神侵略の完成』とした声明文を出した。その中で安倍総理は就任前、屈辱外交路線を修正する期待を国民に抱かせたが、就任した途端、村山談話と河野談話を継承し、靖國神社参拝をうやむやにした。その屈服という土産を手に中共を訪問したことを、恭順の意を胡錦濤に示した屈辱外交だと批判した。
さらに、翌年は温家宝を招いて国会演説までさせ、遺棄化学兵器の追加処理費用、先進公害処理技術などなどの供与を与えてやった。
人口侵略の象徴ともいうべき裁判が、日本人という名のシナ人残留孤児らが政府を相手に生活保護費を要求する運動である。これに対しても安倍政権は、彼らを官邸にまで招いて支援を確約・政府支援を実行した。民主主義を支える根幹の三権分立を踏みにじってさえ、シナ・中共へ配慮する屈服だった。田中角栄に勝るとも劣らないシナ・中共への屈服、
小泉内閣以来、遮断していた日中友好というシナ・中共の対日侵略を、安倍内閣は一気に推進させたのである。
その最後の仕上げが、今年4月の訪米で示した慰安婦への謝罪である。「狭義の強制性はなかった」と左翼学者ばりの答弁で強制連行を認めた。「20万人のアジア人女性をレイプ・センターに入れた」と米国マスコミが主導する世論と、「河野談話」を世界に向けて否定する機会を逃したばかりか、逆に慰安婦強制連行を世界に向けて我が国首相が「謝罪」でもって肯定した。これ一つとっても、安倍晋三は歴史に売国総理大臣として名を刻むであろう。
シナ、朝鮮と米国が一体となった「近代史を利用した対日精神侵略は、完成をみるに至った。日米経済戦争とは比較にならない、思想戦・宣伝戦における日本の大敗北であり、これこそが悲惨きわまりない第二の敗戦である」(前記声明文)と。
【安倍総理が手玉に取った保守派言論人】
安倍総理の辞任は朝日などの反日マスコミの攻勢に負けたのではなく、対日精神侵略の完成という任務を成し遂げた故に、ご用済みとなったのである。つまり、反日マスコミに使い捨てられたのである。その最後の仕上げともいうべき舞台が、米国において世界に発信した慰安婦強制連行の謝罪であり、それでもって使命を完了したのである。
付け加えるならば、安倍総理は総理就任と同時に伊藤哲夫、岡崎久彦、中西輝政、西岡力、八木秀次の各氏らをいわゆる保守系言論人のブレーンとして抱え込むことで、広範な保守層からの政権批判を完全に封じ込めた。この「安倍5人組」が推奨して止まないシナ人評論家の石平氏は彼らの意向を受け、温家宝首相の来日に際し、安倍首相の「あいまい戦術」を持ち上げて「日中関係の主導権は完全に安倍総理の手に転がってきて、日中関係はまさに安倍ペースで進むことになっている」(石平『ボイス』6月号)と述べ、安倍総理礼賛を煽った。シナ・中共の意向に添った展開で、対中屈服外交を深化させた安倍総理の売国を隠蔽した。何のことはない、安倍首相に「手玉に取られたのは温家宝首相」(同6月号)ではなく、まさしく保守派言論人とその取り巻きだったのである。
そうした“静謐”な環境の中で安倍総理は歴史に残る「第二の敗戦」を成し遂げたのだ。
これらの保守言論人は教育基本法改正、防衛省への昇格、憲法改正などを取り上げ安倍政権の正当性をことさら強調する。しかし学校教育が破壊し、子供の素行が顕著に一気に乱れ始め、今日に至ったのは平成の時代に入ってからである。基本法に問題があるとすれば、何故に改正されない以前は学校破壊と子供の素行に乱れがなかったのか。防衛庁が省に昇格すれば、再び我が国領海を侵犯するシナの原潜に爆雷を投下できるのか。憲法が改正されていないから、自衛隊が尖閣諸島に常駐できないのか。これら素朴な疑問に、明快な説明がなされない。「第二の敗戦」を招いた売国的ともいう業績を、いくつかの法案でもって糊塗するとすれば、安倍総理に仕えた保守派言論人らは、自らも対中屈服外交を擁護してきた偽善の誹りを免れ得ない。
【時代は保守ではなく体制打倒へ】
建物でいえば、今や日本は焼け落ちたのである。瓦礫と化した状況を更地にし、新たな政治構造が組み立てられていく時代に突入した。思想・価値観が相克しては既存の秩序が体をなさず、ありとあらゆる状況が想定される時代、何が起きても不思議ではない混乱の時代である。
自民党総裁選に立候補した福田康夫元官房長官と麻生太郎幹事長は19日、記者会見で共に対日精神侵略の要ともいうべき「村山談話」を継承すると言明した。日本外人特派員協会の記者会見という場からして、我が国が侵略国家であるとの宣言を世界に向けて公言したのである。
自民党にいわゆる「保守」を矜持する欠片さえないことを、さらには期待してはならないことを示した。政治家集団に国民の生命・財産・安全、国家の名誉を委ねることができない事態と認識しなければならない。つまり彼らは今や、「保守」の仮面で国民を欺くある種の利権集団であり、政党の所属を問わない強固な体制派である。
守るべき「保守」が消滅した現状からして、我々をこの体制を覆す反体制派、つまり広義の革命派と位置づける時代に突入したのではないか。高度に発達した法治主義国家における体制打倒とは、いかなる形態と多様性を帯びていくのかを真剣に模索する時代へと。
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