<論争とは事実を挙げて道理を説くことである> |
平成23年4月11日 |
主権回復を目指す会代表 西村修平 info@shukenkaifuku.com 東京都千代田区西神田1−1−2 パトリス26―502 電話03−5281−5502 Fax 03−5281−5603 |
下記は<手放しで喜んでいいのか>へ“反論”(「甦れ美しい日本」メルマガ)があったのでお答えする 論争とは事実を挙げて道理を説くことである。双方が主張する意見並びに理念を闘わせることによって、お互いがそれぞれ鍛え上げられていく。従って論争に好き嫌いの感情論を持ち込んだり、ましてや実体のないレッテルなどをはりつけるものではない。 「事実を挙げて道理を説く」、この作法に従えば、いくら口角泡を飛ばしても感情の対立など生じないし、論争は競技終了のスポーツのように、爽やかさは残るが後味の悪さなど残らない。 「ステルス左翼」なる言葉が、何を言いたいのか定かでないが「実体」のない空疎を指すなら、それを具体的に事実を挙げて指摘すればいい。 因みに私は西村修平、主権回復を目指す会の代表さらには自由チベット協議会の事務局運営に関わって来ており、事務所も千代田区西神田に存在する。従って実体のない「ステルス」とかではない。歓迎するのでお出でなればいい。 当メルマガに掲載された<手放しで喜んでいいのか>は海外メディアとこの報道を絶賛する所謂「保守」派の考え方、メンタリティーを論考したものであって、哲学、宗教、マルクス主義云々を論じていない。 哲学、宗教、マルクス主義云々を論ずるのであれば別の場で、貴殿が問題を提起すればいいだけのこと。意図的か、論争に窮したか分からないが、提起した問題をねじ曲げては議論が成立しない。 小生の提起した論考の事実は下記に基づいている。 ◆上記の報道のように、ここの何処に我が国が他国に自慢する民度の、倫理観の高さがあるのか、人の不幸につけ込んだ火事場ドロボー、最も卑怯な行いではないか。これを演じている卑劣漢が他でもない日本人なのである。これら日本人、恥を知れ!と言いたい。 これは事実に基づいてる。 この事実に基づき「 私はこの<こそ泥>根性、人の不幸につけ込んだ火事場ドロボー、こそが実は日本人の現代の堕落性を顕著に物語っているのではないかと思う」と問題を提起し、「極めて卑劣で卑怯である。この<こそ泥>が我が日本人の仕業でないことを私は信じたいが・・・」と読者への一考を促した。 しかしながら、この卑劣漢こそがわが日本人であることが明白な否定できない事実だった。ここの何処に我が国が他国に自慢する民度の、倫理観の高さがあるのか、人の不幸につけ込んだ火事場ドロボー、最も卑怯な行いではないか。これを演じている卑劣漢が他でもない日本人なのである。これら日本人、恥を知れ!との道理を説いたのである。 ◆海外メディアは震災時における日本人の規律正しさ、整然とした行動、暴動、略奪に走らない民度の高さを「驚き」をもって報道した 喫水線スレスレの漂流船にしがみつく遭難者を、ボートのオールで追い払う行為を例に取ればお分かりの筈でないか。一人を収容することでボートが転覆し、何十人もの助かる命が海の藻屑となってしまう。こうしたことは「緊急避難」として世間にも周知されている。 民度とか倫理観の評価は、ある一定の条件で反対の側へ転化する。これは事実に基づく見解である。 文永、弘安の二度に亘る蒙古襲来時、元と高麗軍は上陸占領地点に野営するのではなく、夜間は海上に宿営した。これは死傷おびただしく劣勢におかれた鎌倉武士だったが決して怯まず、執拗なまでの野戦を継続、彼らに甚大な損害を与え続けていたからだ。従って元と高麗軍は、夜間は海上に釘付けにされていた。そうした状況のなかで、元・高麗軍は強風という神風に遭遇して壊滅したのが真相である。 神風が日本を救ったのではなく、鎌倉武士の不屈の戦いがあたから強風は神風に転化して日本に味方した。 これも見事なまでの「事物とか物事の概念はある一定の条件で反対の側へ転化」する例、対立面の統一ではないか。マルクス云々以前を論じている。 強風が一定の条件(鎌倉武士の野戦)で神風に転化したのである。鎌倉武士の不屈の戦いがなければ、神風はそよ風にしか過ぎなかった。 あなたがこの論争において ◆「カントールのパラドックス」=ラッセルの背理)と数学基礎論における「ゲーデルの不完全定理」、カントールのパラドックスもゲーデルの不完全定理も、大乗仏教と小乗仏教・・・・ あなたがいくら、◆<「カントールのパラドックス」=ラッセルの背理)と数学基礎論における「ゲーデルの不完全定理」、カントールのパラドックスもゲーデルの不完全定理も、大乗仏教と小乗仏教・・・>を羅列したところで、議論は成り立たない。 論争は本棚に飾っている本の冊数を競うものではない。知識の羅列でもない。事実を挙げて道理説を説かなければ、万民を納得させることなど出来ない。知識をひけらかして、他者を恫喝していると疑われる。 見解が意に添わないとのことで、マルクスとか左翼のレッテルを貼って論争を回避するなど、これこそまるで<こそ泥>的であり、見苦しい限りだ。 ◆今回のような大災害における庶民の行動には、祖先が潜在意識に植えつけた宗教的規範――日本人においては、神道と大乗仏教(小乗ではなく)――が現れると考えるのが自然でしょう。 災害時の<こそ泥>、火事場ドロボーは、日本が世界に誇る「祖先が潜在意識に植えつけた宗教的規範」と吹聴するのか。これを恥さらしと言わずして、何と言えばいいのか。 ◆再びステルス左翼的な論考を投稿されることがあったら、本メルマ編集事務局の方は、掲載を拒否されるべきではと思います 編集事務局へ「掲載を拒否」などと、実に卑屈な<こそ泥>的発想だが、ここは是非ともあなたが宣う<無限集合論に現れる「カントールのパラドックス」=ラッセルの背理)と数学基礎論における「ゲーデルの不完全定理」によって証明>して貰いたい。 知識と知性は似ているようだが、別物である。知性とは立心偏に生きる、得た知識で如何に生きるかの選択である。如何に生きるかの理念が無ければ、得た知識は置物かまたは本棚を飾るただのコレクションにしか過ぎない。 【参考】 |