総電力量に占める原発が30%という数値には、議論の余地が大いにある。
仮に電力需要の70%を原子力に依存しているのであれば話は別だが、30%であれば、新エネルギー、すなわち「再生可能エネルギー」の活用を中心とするエネルギー政策の大転換について議論する余地が十分に存在している。
原子力安全・保安院および原子力安全委員会の一挙手一投足を見ただけで、とてつもない危険を包含した原発というシステム全体を「使いこなして運用する『能力』が日本という国家には無い」ことが既に明白である。
「想定外」という魔物のような言葉の前には、全くもって無力なのだ。
明らかになった以上、腹を括るべきである。
国策としてのエネルギー政策の在り方について、原発依存からの脱却=「脱原発」の可能性を含めて、一から、いやゼロから検証した上で、突き詰めた議論を展開していく必要がある。
これは思想の右左の問題ではない。
危険性が無く、環境負荷が少なく、技術革新への集中投資が経済の活性化につながるのであれば、「再生可能エネルギー」の活用の道を模索することは国益に適っている。そのように国益の観点から道理を説く意見であれば、たとえそれが「左側」の陣営から提起されたものであったとしても、真摯に耳を傾け、議論に応じなければならない。
それに対し、なお原発への依存の必要性を訴えたいのであれば、自らの主張の正当性を立証できるだけの論拠を取り揃え、事実を挙げなければならない。
現行の原子力政策への異論を一律に「反日左翼」と決め付け、レッテル貼りに狂奔し、建設的な議論からも遁走するかのような姿勢を我々は容認できない。
「愛国」の看板を掲げながら、そのような逃避の姿勢に終始することは、国家の将来に対する二重の裏切り行為であるとさえ考えている。
真の愛国者を自負するのであれば、原点に回帰すべきである。
それはすなわち、「事実を挙げて道理を説く」・・・このことに他ならない。
日本は現在、災害という未曾有の「戦争」状態に直面している。
被災地住民はもとより、世界が固唾を呑んで戦況を見守っている。いや、見守るどころではない。日本という国家の「無力」を目の当たりにして、今や公然と批判を始めている。我々は思想の違いを超え、日本国民として、その現実を虚心坦懐に受け入れることを求められている。
「戦争」は必ず最小限の国民負担で終結させなければならない。その終結が偏に福島原発の「火を消す」ことにかかっている事実は、今さら言を俟たないであろう。 |