平成18年9月7日 小泉政権5年をこう見る(防衛大学校長 五百旗頭真)
 

 小泉純一郎は類例のない政治家である。

 戦後の自民党政府は、党と官僚機構を2大マシーンとし、下に支持母体となる多くの巨大利益集団をかかえ、旺盛な派閥政治を恣いままにしてきた。小泉はそれらの世話にならず、国民との共感を築くことによって首相となった。

 小泉首相は、圧倒的な支持率を背景に、長く続いた派閥政治と既得権政治を打破する役回りを演じた。派閥の拘束なしに閣僚人事を思いのまま行ったのは、戦後史にあって吉田茂と小泉のみである。それでいて、「ワンマン吉田」が政権末期には不人気をきわめたのに対し、5年の政権を全うする小泉首相の国民的人気は衰えを見せない。奇跡の人と呼ぶ他はない。

 小泉の政治改革は3つの要素から成る。一は新自由主義的な民営化と小さな政府化の推進である。二は国際的役割の拡充であり、リスクをとって自己主張し行動する外交展開である。三はこれらを可能にする官邸の機能強化である。

 実はこの三つを軸とする改革は、80年代のレーガン・サッチャー・中曽根の時代に始まり、90年代の小沢一郎や橋本龍太郎によって模索されたものの継承であり、小泉の独創ではない。

 小泉の独創性は、国民の前で改革をドラマ化して演じて見せ、国民を巻き込み、国民を感動させる民主主義の劇場政治である。小泉は日本史上初めて国民と共感で結ばれた政治家である。

 小泉首相が余りに魅力的であり、時代の表現を独占しているため、よいことだけでなく、まずいことまで国民的に了承されるところがある。「あばたもえくぼ」症候群である。外交面にそれが顕著であると、私は見ている。

 たとえば靖国参拝一つで、どれほどアジア外交を麻痺させ、日本が営々として築いてきた建設的な対外関係を悪化させたことか。

 侵略戦争を行ったうえ敗北した日本に対する不信は、世界に、とりわけアジアに根深かった。しかし戦後日本は平和的発展主義をとり、世界で最も格差の少ない豊かな社会を築いた。さらに民主主義社会を確立し、そして途上国の国づくりへの協力を重ねた。これを見て、世界は日本を信認するようになった。

 東南アジアは90年代には日本の友人となった。難しかった韓国との間も、金大中−小渕恵三の時代に転機を迎えた。江沢民の中国はもっとも厄介であったが、それでも世紀転換期には日本重視路線に転じた。

 これら積み立てられた信用という対外資産は、小泉首相が靖国参拝にこだわったことによって、大きく損なわれた。しかし小泉首相のあり余る魅力と国民的人気が、アジア外交への批判を封じているのである。
 
  小泉外交は全体的に見てどうか。やはり高い得点をマークしている。

 とりわけ大きな業績は、対米関係の高水準化である。日本外交にあって対米関係が単独過半数的地位を有するだけに、その劇的な改善は大きな成果である。首相は9.11テロに傷ついた米国に飛び、ブッシュ大統領と並んで「日本はアメリカと共にある」と言明した。

 世界的に不人気なイラク戦争をブッシュ政権が発動したとき、小泉首相はいち早く「支持」を表明した。イラク占領後に戦乱状況が拡がり、日本人外交官も犠牲になる中で、首相は自衛隊の派遣を決断した。「たとえ犠牲を伴うとしてもやらなければならないことがある。」危険を冒しての外交行動も、やはり小泉にとってタブーを超える感動のドラマなのである。

 ちなみに私はイラク戦争が間違った戦争であると判断し、筋目の悪い戦で米国と一緒してもきっと後味悪い結果になると憂慮した。間違った戦争であることは、その後ますます明瞭となったが、イラクに派遣された自衛隊に悲劇は起こらなかったし、日米関係も悪化しなかった。

 それどころか、小泉首相は自らの任期中に陸上自衛隊をサマワから見事に撤収した。しかも対米関係をこじらせることなく、ブッシュ政権から称賛を浴びながら。この魔術に対しては脱帽する他はない。

 小泉外交は戦後日本になかった「リスクをとる外交」である。首相自らがあの北朝鮮を訪問し、拉致を認めさせ、問題解決の大筋を共同声明に示す大業は、小泉以外の誰にもできなかったであろう。

 内政にも外交にも、小泉政治には勇気と感動のドラマがある。不世出のリーダーといってよい。アジア外交の失点は小さくないが、それは小泉首相が再浮上の機会を後継者たちに残したものと考えて対処せねばなるまい。

 
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