「家父長制にとらわれるな」
【永井路子(80)歴史作家(朝日新聞、平成17年12月12日)】
大正14年生まれ。昭和40年『炎環』で直木賞。近著に『女帝の歴史を裏返す』(中央公論社)』
永井路子、元正天皇(在位715〜24)を描いた『美貌の女帝』(文春文庫)をはじめ数多くの歴史小説を通じて、一貫して女性の側から歴史をとらえ直した作家。皇室典範の改正問題に絡み、議論の深層を語る。
彼女は、いま女性・女系天皇の是非を論ずるよりも、まず「日本の女帝の歴史を見直し、その実態を明らかにする必要がある」と指摘する。
現代に至る歴代天皇は125代。8にん、10代の女性天皇は、例外的存在であったか。「日本の歴史上、洋服を着るようになったのは最近の100年に過ぎない例外だから着物に戻ろう、とは誰も言いませんね。時代の動き、社会の動きを抜きにして、数だけ問題にするのはナンセンスなこと。
飛鳥朝から奈良朝にかけての約180年間に、6人8代の女帝が誕生した。これほど女帝が集中して誕生した時代は、世界史上でもまれだ。推古天皇(同592〜628)の即位は、唐の則天武后(即位690年)、朝鮮(新羅)の善徳女王(同632年)より早い。「東洋最初の女帝を生んだのは、日本だった」
その背景を「唐からもたらされた家父長制が日本で浸透したのは、平安時代半ば。それ以前の家父長制度は結婚も妻方居住婚が主流で、母方で育てられた子供が父方母方の両方から地位や財産を継承できる『双方系』社会だった」と説明する。
女性が財産、社会的発言力を持てた時代。だからこそ、父方から皇族の血を引き、強大な権力財力をもつ蘇我家に生まれた娘たちが皇后や女帝として表舞台で活躍したのも「当然の流れといえる。当時の政治に実態は、天応と皇后一族、女帝なら生家との共同統治に近かった」。
「一般社会にも一家を取り仕切る女ボスである大家(オオトジ)が沢山いました。しかも、歴代女帝の時代には遷都や律令編纂といった国家的事業が行われている。一概に男帝が正統、女帝は中継ぎとは言えない」と力を込める。
永井さんによると、「平安初期、政治形態に大変化が起こった」という。藤原氏が権力者、天皇が権威としてワンセットになって政治機能を果たしていた。その天皇を中心に和歌集や漢詩集編まれ、文化が花開く。「天皇のありようは時代によって変わる。文化人としての役割なら、なおさら男帝である必然性はない。平安末に女帝即位が検討されたこともありました」
実際には平安中期には家父長制が浸透、皇位継承は男子にしぼられていった。とはいえ「国母(天皇の生母)や、時代が下ると乳母が権勢を振るった。皇位が男系に固定化しても、女系の影響力は健在でした。そうした実態は、家父長制という先入観にとらわれていては見えてこない」。
江戸時代には明正(在位1629〜43)後桜町(同1762〜70)という二人の女帝が存在した。明正女帝は、徳川秀忠の娘を中宮にした父・後水尾の突然の譲位で8才で即位。秀忠の孫を皇位につけるべく「幕府は躍起になった女帝即位に伴う有職故実を調べあげた。8世紀ぶりであっても、女帝誕生は可能だったわけです」。
今後、もし天皇の系譜か女系に移行すれば長年の歴史、伝統が断ち切られる、との恐れに対しては「女帝を輩出した奈良時代の伝統が、平安朝で断ち切られましたね。それも時代に流れでしょう」。
歴史作家として「歴史の本質は変化です。どのように制度を動かしていくかは、時代に即して決めればいいこと」と強調する。永井さんが思う、時代の潮流とは何か。「現代の女帝問題には発言を控えたいのですが・・・。敗戦によって象徴天皇制となった。一般社会では男女平等が実現し、女性社長が増え、そのうち女性総理も誕生するでしょう。その延長で、この問題をとらえています」