防大校長・五百旗頭真ミニ研究(I)
 

はじめに

 筆者は防衛大学校(以下防大)OBでありながら、五百旗頭防大校長が校長として著しく適正さを欠き、従って同氏の罷免が必要と考える者である。その理由などは逐次述べていくが、その要旨は以下のとおり。

  1. 東京裁判史観(=自虐史観)の体現者である
  2. 軍事力軽視というより、むしろ軍事力不要論者に近い
  3. 福田康夫前首相の腹心中の腹心として、福田政権の内政・外交に悪影響を及ぼした
  4. 全校学生に対し、月1度のゼミを通し直接影響力を行使。一方では常識外の校外活動により、校長職務を蔑ろにしている
  5. 田母神前空幕長更迭を完全肯定した

  なお、本稿では敬称を省略することをご了解願いたい。

防大校長選定のシステム(制度)

  五百旗頭の防大校長就任が明らかになった際、それまでの同氏の言動などからして、多くの自衛隊関係者や保守派から疑問の声があがった。田母神も「WILL」(平成21 年2月号)でこう述べている。「歴代の校長にも左がかった人物がいましたが、、誰がどうやって選んでいるのか、われわれでもよく分からない。どうしてこんな人を、と五百旗頭さんの就任直後から疑問に思っていました」
  確かに五百旗頭だけでなく、彼の前任者らにも疑問符がつく人物がいた。筆者の個人的経験だが、平成14年に防大が創立50周年を迎えるに際しての記念事業の目玉に、平山郁夫の原画による、いわゆる「平山ステンドグラス」を多目的講堂の壁面に設置する計画が進められた。これの主導者が防大1期生で同窓生トップの佐久間一だったが、佐久間の企画を積極的に受け入れて承認したのが第6代校長の松本三郎、実施段階での校長が西原正第7代校長だった。筆者は小堀桂一郎先生のお力添えにより、月刊誌「月曜評論」(平成12年8月号)に計画反対の論文を書き、また西原に対して計画再考を求める書簡を3度出したが、一顧だにされなかった。そればかりか、有志らの努力があってこの計画が撤回された後も、校長として一言の釈明・弁明もなかった。
  また5代目校長の夏目晴雄は、昭和58年から60年の間防衛事務次官を勤めた後、防衛庁顧問を経て校長になった人物だが、田母神更迭に関して「ここ10年ほど、制服組の動きがおかしいな、台頭が著しいなと思ってきたが、それを象徴するように、田母神俊雄前空幕長の論文が問題になった。背景には、(中略)制服組が思い上がりとも思える自信過剰になってきたことがある」、「その結果、『政治将校』と言われるように、各幕僚監部の幹部らが堂々と政治家と直接接触するようになり、参事官制度の廃止、内局運用企画局の統合幕僚監部への統合へという流れができてしまった」、そして「今、いつか来た道を歩き出したのではないか、との不安をぬぐえない」と述べている(高知新聞「いつか来た道、歩き始めた」平成20年11月16日)。
  夏目は既に齢80歳を過ぎていると思うが、防大校長だった誇るべき過去を忘れたのか、いわゆる「背広組」の権威後退の危機感を感じて我を忘れたようだ。「いつか来た道・・」などとは、まさに左翼用語そのもので、防大校長の経歴がある人物の言葉とは思えないボケ老人の戯言だ。
  更には五百旗頭が恩師と仰ぐ猪木正道・第3代校長は、「日本を蝕む人々」(PHP研究所)その他で、彼の自虐史観に基づく言論が「まさに江択民・前中国国家主席の言うことと同じ」などと批判されている。

 防大校長に、かかる人物が就任した実績の仕上げとも言えるのが、五百旗頭就任と見ると分かり易い。要は五百旗頭校長の登場は、たまたまだとか、偶然の産物ではないと認識する必要があるのだ。

 防大校長は如何なる基準と手続きで選定されるのかを確認するために、筆者は防衛省に情報開示請求を行った。併せて五百旗頭校長就任までの4ケ月、校長不在だった事実の背景をも調べてみた。そして意外なことが分かった。
  在任期間は槇初代校長の12年5ケ月を最長に、大森2代校長が5年半、猪木3代校長が8年、土田4代校長が7年半、夏目5代校長が6年半、松本6代校長が6年5ケ月、西原6代校長が6年となっている。ところが、第5代・夏目は本来の任期満了は平成5(1993)年3月31日であったが、1年期限延長辞令及び6か月繰上げ辞令(延長は実質6ケ月)、第6代・松本は本来の任期満了は平成10(1998)年3月31日であったが2度にわたる1年期限延長辞令(延長は実質2年)、第7代・西原は本来の任期満了は平成16(2004)年3月31日であったが2度にわたる1年期限延長辞令(延長は実質2年)という経緯となっている。そして平成18(2006)年3月末に西原正が退任後、同年8月1日付で五百籏頭真が就任するまで、防大校長は空席だった。
  上記から分かることは、

  1. 初代〜3代までは発令時に任期は示されていなかった
  2. 5代目以降、任期は5代目・夏目が5年、6代目・松本が4年5ヶ月、7代目西原が4年と、バラバラな期限が示されていた
  3. 第5代・夏目以降3代にわたり、任期満了と同時に次期校長が決まらなかった

ちなみに、8代目・五百旗頭については発令時に任期は示されていない。

 かかる事実をベースに、情報開示資料を以下に紹介するのでご覧になって頂きたい。開示資料は「次期防大校長選考の基本的考え方」(平成17年1月28日)である。この資料を要約すると、
@校長候補選定の主管部門は「防衛省大臣官房秘書課」で、同秘書課で「選考基準(8項目、ただしその1には3ツのサブ項目がある)」、「推薦依頼先候補(4機関または団体)」「意見聴取先候補(2機関または団体)」を定めている。(ただし公開された資料では「選考基準」「推薦依頼先候補」「意見聴取先候補」の全てが塗りつぶされているので、具体的中身は不明である)
A秘書課は部内根回しを経て、校長候補者の「選考リスト(順位付き)」を作成する。
B「選考リストは「閣議人事検討会議」に上げられて、候補者が1人に絞りこまれる。以後は大臣決裁・閣議了解・発令となる。
  なお、上記「・・選考基準の考え方」の作成日は平成17年1月であるから、それ以前にはかかる基準的決まりは無かったことになる。

五百旗頭校長就任の経緯

関連事項を時系列で追っていくと以下の通り。
平成16年3月31日:西原校長 任期満了のところ、1年期間延長
平成16年4月20日:「安全保障と防衛力に関する懇話会」(小泉内閣)の委員に就任
平成17年1月28日:「次期防大校長選考の基本的考え方」策定
平成17年3月31日:西原校長 再度の1年間期間延長
(この頃、渡部昭夫より防大校長を打診される)
平成18年3月31日:西原校長退任(校長事務代理を置く)
平成18年6月下旬 :(五百旗頭、校長受託を決心)
平成18年7月19日:額賀防衛大臣 五百旗頭校長を決済、閣議承認を小泉に求める
平成18年7月21日:閣議で五百旗頭校長を承認、発令
平成18年8月 1日:五百旗頭校長就任
上表の( )内は「中央公論・人物往来)」(平成18年10月号)から要旨を転記した。

 ところが校長就任直後の平成18年9月7日、官邸メールマガジンで公然と「小泉首相の靖国参拝批判やイラク戦争反対」を唱えたことから、五百旗頭批判がネットに噴出した。また「主権回復を目指す会」など、複数のグループが五百旗頭罷免要求を掲げて運動を始めた。五百旗頭は、何故こんなあからさまな発言をしたのだろうか。
  五百旗頭の防大校長就任は、事実上小泉首相人事だった。小泉は平成16年4月20日に発足させた「安全保障と防衛力に関する懇話会」の委員に五百旗頭を登用したことから、五百旗頭の利用価値に気づいた。五百旗頭を小泉に近づけたのは、平成12年から14年まで小泉の私的懇談会「対外関係タスクフォース」のメンバーを務めた西原・防大校長(当時)と外務省トップと同OBのだった可能性が高い。
  小泉は自民党総裁になるために「8月15日の靖国参拝」を繰り返し公約して、保守派を中心に支持を集めた。他候補との差別化に靖国カードが効果があることを、政治センスに長けた小泉は熟知していたのである。彼が首相在任の5年間、毎年靖国参拝したことは評価するが、それでもそれが人気取りのパフォーマンスであったことは否定し難い。
  小泉は五百旗頭のような「リベラル派」を側近に侍らすことは、国内的には勿論、対米・対中配慮の面で効果絶大でることを承知していた。そうであるから、五百旗頭の靖国参拝批判などを、何食わぬ顔で教唆したと思われる。要は五百旗頭は、小泉の掌の上で踊るペットもしくはロボットに過ぎなかった。
  五百旗頭はメールマガジン発言の反発に驚いて、公開のシンポジュームや防大卒業生の会合などで「あの内容は小泉首相が了解したもの」といった釈明を繰り返しているが、それは小泉の戦術だったから当然だったのだ。そして悪さが過ぎると怒りを禁じ得ないが、小泉は積極的に五百旗頭を防大校長に売り込んだ。防衛省は、高い支持がある小泉の五百旗頭校長案を大歓迎したと思われる。

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